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今月の顔-2004.4 バックナンバーはこちら
歌舞伎俳優、重要無形文化財保持者 中村富十郎
今回の「今月の顔」は、歌舞伎俳優で人間国宝の中村富十郎さんです。幼い頃から踊りに励み、この道60年。74歳の現在も歌舞伎座の舞台で活躍し、少年のように眼を輝かせてお芝居の話をなさる富十郎さん。飽くことのない歌舞伎への情熱とふたりのお子様から受けるパワーが、若さの秘訣のようです。幼い頃の銀座での思い出、ホームグラウンドである歌舞伎座・新橋演舞場周辺、現在お住まいである佃、15年先の大きな目標などについて、心弾む楽しいお話を伺いました。

インタビュー映像がご覧いただけます。

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【座右の銘】晴耕雨読プロフィール
中村富十郎 写真
14歳で歌舞伎の初舞台を踏まれるまでの経緯、中央区との関わりをお聞かせ下さい。

  生まれは東京の溜池ですが、母方の祖母(藤間政彌)が現在浜作本店のある場所(銀座七丁目7番4号付近)で踊りの師匠をしておりました。その祖母の家と溜池の家を行き来していましたので、中央区とのご縁は幼少の頃からになります。小学校は三田の慶應幼稚舎に通いましたが、6、7歳頃(昭和10年頃)の記憶で印象に残っているのは、祖母の家のすぐ近くに金春映画劇場があり、そこでニュースと漫画(ミッキーマウスやポパイなどの海外アニメ)が上映されるたびに出かけ、スクリーンに観入っていたことです。
  踊りは、祖母と母(当時・吾妻春江)が主宰していた春藤会で3歳から稽古を始め、9歳の時に新橋演舞場で初舞台を踏みました。踊りには熱心でしたが、歌舞伎俳優になることは親子ともども考えていませんでした。昭和14年に第2次世界大戦が始まると東京は空襲が激しくなり、当時大阪で生活していた父のもとで暮らすことになり、中学1年を中退して4月に行きました。当時、株式会社松竹の白井松次郎会長が私のことを「ぜひ、歌舞伎の舞台にお出しなさい」と熱心に父に進言され、私は寝耳に水でしたが、昭和18年8月、大阪の中座(平成11年閉館)で歌舞伎俳優としての初舞台を踏むことになったのです。

戦後は、歌舞伎俳優と吾妻流舞踊の家元という両方の立場でご活躍されましたが、歌舞伎座での初出演、思い出などをお聞かせ下さい。

終戦後の昭和24(1949)年に東京に戻り、東劇の舞台を務めていました。ちょうど公演中に、歌舞伎の世界では大大先輩で雲の上の存在だった六代目尾上菊五郎様が亡くなり、お悔やみに駆けつけて末期の水を取らせて頂けたことは、今でも記憶に鮮明に残っています。翌年の昭和25(1950)年、吾妻流舞踊の家元としての襲名披露を新橋演舞場で行いました。その後昭和30年には、10ヶ月間に渡る「アズマカブキダンス」のアメリカ・ヨーロッパ公演で日本の伝統芸能を海外に進出させる初めての試みを行い、非常に勉強になりました。
  歌舞伎俳優として歌舞伎座の舞台を初めて踏んだのは、昭和31(1956)年11月に尾上菊五郎劇団に入団した時でした。その後吾妻流舞踊の家元は返上し、昭和47年に五代目中村富十郎を襲名、もちろん歌舞伎座でしたが、その後も歌舞伎一筋に専念してまいりました。歌舞伎座はなんといっても私のホームグラウンドです。ここで良い役ができるということは、私にとって最高の誉れだと思っています。

中村富十郎という名跡を襲名後、海外公演も精力的にこなされてますが、特に力を入れていらっしゃったことはどのようなことでしょうか。

 歌舞伎は大変奥の深いもので、演目も多く、一生のうちに演じきれない役は無数にあります。同じ役を何度演じても、その度に新鮮な気持ちを味わい、改めて気付かされることがたくさんあります。諸先輩の素晴らしい芸をいかに吸収し、自分のものとするか。生涯の仕事として、これほど素晴らしいものはないと思っています。海外公演は、声をかけて頂く機会も多く、進んで参加してきました。海外での公演も、緊張感は日本と同様です。
  かつてマッカーサー元帥の副官だったフォービアン・バワーズ氏に「外国人に理解してもらおうと、分かりやすい演技をしてはいけない。日本での時と同じように演じれば、理解は自ずと深まるもの」と助言されましたが、まさにそのとおりだと私も思います。
  母と一緒にアメリカで初めて上演した「二人椀久」という作品が、その後歌舞伎の演目として定着し、平成9(1997)年のパリ公演でこれをメインに興行ができたことは、私にとって海外公演における大きな収穫となっています。

中村富十郎 写真
中村富十郎 写真
今後の目標と、元気の秘訣をお教え下さい。

 平成13年に長男の大(当時1歳)が歌舞伎座の初舞台を踏みました。15年後は私が90歳、大が20歳になっています。その年はちょうど初代中村富十郎の生誕300年祭にもあたり、とても区切りの良い年ですので、大に富十郎の名を継がせ、「京鹿子娘道成寺」を踊らせたいと思っています。まだ子供ですから、細かいことは一切言っておりませんが、良い舞台をたくさん見せ、その緊張感を感じさせることが大切だと思います。また、邦楽、絵画など、良いものに触れさせ、素晴らしいと感じる根本的な感性、“感激性”を養っていきたいと考えています。それが役者には絶対に必要な心ですから。また、昨年(平成15年)誕生した長女の愛子には、踊りの道に進んで欲しいと思っています。
  次にどんな役ができるのかという、胸踊るような舞台への期待、つまり芸そのものが私の生き甲斐です。強いて言えばこれが元気の秘訣でしょうか。いつまでも舞台を務められるよう、体調管理には気を遣っています。それと同時に、後輩や子供たちからパワーを貰っているのでしょうね。日野原重明先生(聖路加国際病院名誉院長、現在93歳)と「100歳になるための100の方法」という本で対談させて頂き、とても共感を覚えました。今年の6月で私も75歳となり、日野原先生が提唱なさっている「新老人の会」の入会条件をクリアしますので、に参加させて頂こうと思っています。

歌舞伎座を本拠地として長くこの地域で過ごされ、中央区の良さをどのようにお感じになっていらっしゃいますか

 中央区は交通の便が良く、また、銀座、日本橋、築地と、それぞれ趣のある魅力的な地域です。現在住んでいる佃は都心とは思えないほど静かで、施設も整っており、住環境としては申し分ありません。何よりも、私ども歌舞伎役者にとっては、歌舞伎座、新橋演舞場、東劇、明治座と、素晴らしい劇場が揃っていることが一番の魅力です。
  最近気に入っている場所は、一昨年東銀座にできた築地松竹ビル(通称・ADK松竹スクエア)です。3階に財団法人松竹大谷図書館があり、調べものをしたい時などによく出かけます。歌舞伎関連の古く貴重な資料があり、何時間も費やすこともあります。1、2階にはくつろげる洒落たレストランや鮨屋もあり、お馴染みになりました。また、聖路加国際病院の地下の売店が好きで、塩分控えめのお醤油などをよく買いに行きます。ふたりの子供がこの病院で生まれ、昨年は私も体調を崩して3日間入院し、大変お世話になりました。
  歌舞伎座、新橋演舞場を中心に、日常的にはこの界隈が私の行動範囲で、この生活が大変気に入っています。

これまでの人生で、心に残る人との出会いや出来事などがございますか。

 8年前(平成8年)のことですが、1月に結婚し、2月公演が決まっていたので、家内も一緒にイタリアへ行かせていただきました。ローマ公演の初日の朝、ローマ法王に謁見が許されて、株式会社松竹の永山武臣会長とともに夫婦揃ってお会いし、握手をして頂きました。私はキリスト教徒ではありませんが、身近でご尊顔を拝し、なんとも言えぬ厳粛な気持ちになりました。生涯に一度あるかないかの貴重な機会に恵まれ、非常に印象深い出来事でした。

最後に、次代を担う若者たちにひと言メッセージをお願いいたします。

  歌舞伎に限らず、日本には、長い歴史の中で育まれた独特の文化と精神があります。温故知新と言いますか、まず、自分の国のことをよく勉強して欲しいですね。そして和魂洋才、外国の文化を取り入れる姿勢が大切です。古来から継承されてきた日本文化の素晴らしさや日本人の持つ精神、心を大切にし、21世紀の新しい時代に引き継いでいって下さい。歌舞伎を通して学べることも多いと思います。

中村富十郎 写真

2004年4月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
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