東京中央ネットロゴ NPO(特定非営利活動)法人東京中央ネット 東京中央ネットは中央区のポータルサイトです。
東京中央ビジネスナビ参加企業について
HOME > 今月の特集 > 今月の顔2004.5
今月の顔-2004.5 バックナンバーはこちら
西川産業株式会社会長 西川甚五郎
今回の「今月の顔」は、“ふとんの西川”で親しまれている西川産業株式会社会長の西川甚五郎さんです。蚊帳と畳表から始まったお店は、明治時代に寝装具の製造をいち早く手がけ、第2次世界大戦後は「ホームファッション」をコンセプトにインテリア用品全般、更に健康・介護商品の開発へと展開してきました。江戸期以来営々と続いてきた会社の経緯、中央区との関わり、健康志向社会に向けたこれからの展望などを伺いました。

インタビュー映像がご覧いただけます。

Windows Media Player ソフトのダウンロード Windows Media Player BB Windows Media Player 56K Real Player ソフトのダウンロード Real Player 56K Real Player BB

【座右の銘】常に前進、開発をめざして プロフィール (略歴) 昭和6(1931)年6月生まれ 昭和36(1961)年3月同志社大学経済学部卒業 同年4月西川産業株式会社入社、監査役に就任 昭和39(1964)年4月同社取締役に就任 昭和43(1968)年6月同社取締役副社長に就任 昭和55(1980)年2月同社代表取締役副社長に就任 平成3(1991)年6月同社代表取締役社長に就任 平成12(2000)年4月同社代表取締役会長に就任、現在に至る 西川テックス株式会社代表取締役会長、西川リビング株式会社代表取締役会長、株式会社西川(東京)代表取締役社長、全日本寝具寝装品協会会長、日本寝具製造卸組合連合会会長、東京西川チェーン本部長、財団法人西川文化財団理事長、など役職多数。
明治初頭の店舗
創業から438年という長い歴史をお持ちですが、現在に至る経緯、中央区との関わりについてお聞かせください。   私は西川甚五郎としては14代目、西川産業株式会社社長としては3代目になります。永禄9(1566)年、初代西川仁右衛門が19歳の時に、近江国蒲生郡(現在の滋賀県近江八幡市)で商売を始めました。当初は、近江から全国各地に麻布、呉服、綿織物、蚊帳(かや)などを運び、行商をしていました。慶長5(1600)年関が原の戦いで徳川方の物資調達を請け負ったことから、江戸開府後の元和元(1615)年、日本橋のたもと(現在、株式会社西川のある日本橋一丁目)に店(つまみだな)を構えたのが江戸進出の第一歩です。江戸時代には主に蚊帳を扱っていましたが、後に弓の販売も手がけるようになりました。寛政元(1789)年に7代目利助が年2回の決算後、純利益の3分の1を従業員に分配する(現在のボーナス・退職金に相当)、という画期的な「三ッ割銀制度」を導入し、寛政11(1799)年には資金の運用方法や積み立ての目的等を制度化し、「定法書」として明文化しました。このような偉業から、7代目利助は中興の粗と言われています。
 江戸から明治に移行し、11代目甚五郎の時代(明治20年頃)に、季節商品の蚊帳に変わる商品として布団の製造販売を始めました。それまで布団は自家で作るものでしたので、商品化は画期的なことだったと思います。これが、現在に至る弊社の主要商品となっています。また、縮緬(ちりめん)、銘仙(めいせん)、モスリンなどの生地の小売も、明治から昭和にかけて行っていました。
 第2次世界大戦後の昭和22(1947)年、西川甚五郎商店は改組し、製造卸業の西川産業株式会社、株式会社京都西川、西川リビング株式会社(旧・株式会社大阪西川)、小売販売業の株式会社西川などのグループ企業に分かれました。西川産業株式会社は製造卸の中核として、昭和35(1960)年に本社を現在の日本橋富沢町に移転し、「ホームファッション」をコンセプトに、寝具を始めとしたインテリア用品全般、健康・介護用品を手がけ、快適なインドアスペースのプロデュースを目標に発展してきました。
会長ご自身と中央区の関わりはいつ頃からでしょうか。また、当時の日本橋界隈の印象はいかがでしたか。  大学時代までは京都に住んでおりましたが、東京にも家があったので行き来はしていました。昭和36年に西川産業株式会社に入社し、住まいを東京に移したので、中央区に関わり40年以上が経ちました。入社時にはすでに現在の日本橋富沢町に本社ビルがありました。当時、この界隈は繊維問屋と呉服屋が非常に多く、街には活気が溢れていました。古くからの商家が多く、建物は少しずつビルの割合が増えていましたが、まだ木造の建物も多少残っていました。しかし、東京オリンピック(昭和39年)のために道路やビルの工事が各所で展開され、とりわけ日本橋の橋の上に高速道路が架かったことは印象深く覚えています。景観がすっかり変わってしまったので、ショックを受けました。 平成3(1991)年に社長、同12年に会長になられ、特に力を注がれてきたお仕事についてお話し下さい。  寝装具をメインに、インテリアなど関連商品を展開してきましたが、私が重視したのはファッション性と、「眠りの質」を高めることでした。ファッション性を追求するにあたり、海外および国内デザイナーとの提携を始め、社内のデザイン企画室の充実を図ってきました。また、眠りの質を高める機能性に関しては、昭和59(1984)年、企業内研究所として「日本睡眠科学研究所」を設立しました。ここでは、より健康で快適な睡眠環境を探求するとともに、人間の睡眠生理に関する研究に取り組んでいます。温度、湿度をコントロールできる人工気象室「睡眠測定室」や、ベッド上の身体の動きを記録する「体動測定ベッド」、敷寝具の違いによる体圧の変化を計測する「体圧分布測定装置」などの充実した測定設備により、膨大なデータに基づいた科学的裏付けのある商品開発を進め、十分な成果をあげています。今後は、さらに高齢化の進む社会に向け、健康や介護関連の商品開発にも力を入れて行きたいと思っています。
「睡眠測定室」と「体動測定ベッド」
インタビュー風景
代々受け継がれている社訓あるいは家訓、またご自身お仕事をされる上での信条はどのようなことでしょうか。  店是(社是)として伝えられている西川のモットーとして、「誠実」「親切」「共栄」があります。この言葉の精神は、お客様、販売店、仕入先をはじめ西川をとりまく全ての人々に対する姿勢として、社員一人一人に引き継がれています。全国500店舗におよぶボランタリーチェーン(卸、小売業の共同体)との提携協力体制を大切に、ともに共栄を図って行きたいと思っています。また先代の父からよく言われたことは、社員との関わりにおいて「情」が大切だということです。会社経営を考えるとどうしても数字が優先しがちになりますが、基本的に大切なのは、人と人との関係だと思っています。
中央区を仕事場とすることの利点、また、お気に入りの場所などがございますか。  中央区は、弊社の宇都宮工場と茨城の物流センターを結ぶ拠点として交通の便も良く、当社にとっては非常に最適な場所だと思っています。近年の富沢町界隈は、繊維・呉服の商売が衰退し、少々元気がなくなっていることは残念です。しかし、日本橋は新しい企業と老舗が混在し、百貨店もあり、人を惹き付ける魅力ある街だと思います。ここ数年の再開発で街の様相は少しずつ変わってきています。日本橋とはご縁が深いだけでなく、個人的にも落ち着く場所だと思っています。
これまでの人生で、心に残る出来事、人との出会いがありましたらお話し下さい。  平成5(1994)年に、財団法人「西川文化財団」を設立したことが、私にとって今までの人生の中で最も心に残る出来事です。滋賀県近江八幡市にある「西川甚五郎本店」の敷地内に「西川文化資料庫」を開設しました。代々西川家に保存されてきた古文書類約5万点が収められています。奉公人請状・日記・勘定目録など近世の経済史上最も古い文献が多く、貴重な資料と言われています。茶箱に収められた原資料の取り扱いや保存はなかなか難しく、財団設立にあたって、古文書の保存・管理と同時に長期保存が可能で閲覧可能なシステムを検討し、古文書5万通を対象に電子ファイリングシステムを導入しました。総目録など現在整備中です。一般公開はしていませんが、ご連絡頂ければ見学、資料の閲覧は可能です。先達の残したものが、学術研究者はじめ、広く社会のお役に立てればと思っています。(お問い合わせ 西川文化財団TEL:0748-32-2909)
最後に、次世代を担う若者たちにひと言メッセージを頂けますか。   便利で物が溢れている現代において、若者たちは、受身の姿勢で少しひ弱になり過ぎている感があります。時代は異なりますが、西川の祖は、19歳で近江から行商に出て江戸に進出し、営々と現在に続く西川の礎を築き上げました。さらにその時々の、時代を先取りするパイオニア精神、チャレンジ精神が今日に引き継がれてきました。そのような商人魂の原点をしっかり見据え、積極的に、根性のある仕事をすることが大切です。恐れず、ひるまず、どんどん現場に出て行って、自分を鍛えて下さい。
インタビュー風景

※記事の組織名や肩書は掲載当時のものです。  
copyright2004 Tokyochuo.net All Rights Reserved.
東京中央ネットについて 東京中央ビジネスナビについて このサイトについて プライバシーポリシー