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今月の顔-2004.8 バックナンバーはこちら
財団法人・小野田自然塾理事長 小野田寛郎
今回の今月の顔は、フィリピン・ルバング島で戦後30年間戦い続け、帰還した元少尉、小野田寛郎(ひろお)さんです。帰国後、一躍時の人となった渦中の日本を後に、ブラジルに移住。牧場開発・経営を軌道に乗せるかたわら、野外キャンプ「小野田自然塾」を通して、日本の青少年の育成に力を注いでいらっしゃいます。不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を支えに、目標に向かって「自分らしく」生きてこられた小野田さんに、自然塾の活動、ブラジルの牧場や中央区佃での日々の生活について、お話を伺いました。
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【座右の銘】不撓不屈(ふとうふくつ)大正11(1922)年3月	和歌山県亀川村(現海南市)に生まれる昭和14(1939)年3月	旧制中学卒業後、貿易商社・田島洋行に入社、漢口(中国・武漢)支店勤務
昭和17(1942)年12月	徴兵により、和歌山歩兵第61連隊に入隊、同年、歩兵218連隊に転属
昭和19(1944)年1月	久留米第一予備士官学校入学
同年8月	同校卒業
同年9月	陸軍中野学校二俣分校入学
同年11月	同校卒業
同年12月	フィリピンに派遣、比島派遣軍司令部参謀部付
ルバング島に派遣、遊撃指揮、残置謀者(敵の占領地内に残留し、味方の反撃に備え情報収集をする情報員)の任務を与えられる。以来30年間、任務解除の命令を受けられず、戦闘を続行。
昭和49(1974)年3月	作戦任務解除命令を受け、日本に帰還
昭和50(1975)年4月	ブラジルに移住、約1200ヘクタールの牧場を原野から開拓し、現在1800頭の肉牛を飼育
昭和53(1978)年	ブラジル移住地で日本人会を設立、初代会長に就任、4期8年務め、以後顧問に就任
昭和59(1984)年7月	ルバング島での経験を生かし、逞しい青少年を育成するための富士山麓で第一回野外キャンプ「自然塾」を開く
平成元(1989)年6月	財団法人・小野田自然塾を設立、理事長に就任
平成3(1991)年8月	福島県塙町に専用のキャンプ施設を設け、本格的に「小野田自然塾」の活動を開始
平成12(2000)年6月	北陸大学講師、現在に至る
今年、平成16(2004)年を以て自然塾活動開始以来21年目 財団設立より16年目を迎えた
「わがルバン島30年戦争」(講談社発行)ほか著作多数、「自然に生きる」シリーズVTR教材なども制作発行。趣味は、写真と剣道(5段 錬士)。
インタビュー風景
フィリピンのルバング島に派遣され、戦後30年間、ジャングルの中で闘いを続けられたということですが、それまでの経緯をお聞かせ下さい。
 和歌山市に隣接した海辺の町で、5人兄弟の3男として生まれました。親の言うことを聞かない腕白な子供で、剣道には熱中していましたが、勉強は好きな方ではありませんでした。旧制中学卒業と同時に貿易商社に勤め、17歳で漢口(現・中国武漢)に渡りました。日中戦争は泥沼化し、第2次世界大戦が勃発した時代でしたが、武漢のフランス租界は別天地で、わずか3年あまりでしたがダンスに興じたりと、しばしの青春時代を謳歌していました。
 満20歳で徴兵、中国語が堪能だったこともあり、予備士官学校、陸軍中野学校(静岡二俣分校)で軍人教育を受け、終戦前年の昭和19年12月、フィリピンのルバング島に遊撃指揮(ゲリラ戦を実地指導)、残置謀者(敵占領地内に残留し、味方の反撃に備え情報を収集する情報員)として派遣されました。以後、昭和49年に冒険家の鈴木紀夫さん(昭和62年ヒマラヤで遭難死)と遭遇が発端で、任務解除命令を受け取るまでの30年間、終戦を信ずるに足る確証がなく、山のジャングルを盾に闘い続けました。
30年間の苛酷なジャングル生活で身につけられたこと、感じられたこと、また辛かったことなど、お話いただけますか。
 一番大切なことは、人間はたったひとりで、社会から離れては生きられないということです。また、ジャングルの中での原始的な生活を通して、思った以上に人間は強いものだということも感じました。必要な物はすべて自分で作るしかないので、創意工夫することが重要になってきます。衣服や帽子を作るための針や糸さえも自然の中にあるもので代用しました。また、自然の中で生きていると、野生化と言いますか、人間本来の感覚も研ぎ澄まされてきます。人間も自然の一部であり、自然の恩恵を受け、自然と共存しているのだということを、強く感じました。特に辛かったのは、雨です。ジャングルの雨は、上からだけではなく、下からも吹き上げて来ます。集中豪雨の続く間は、ひたすら身体を丸め体温の低下を防いで凌ぎました。
戦後30年を経て、経済成長著しい時期の日本に帰国されたご感想、翌年のブラジル移住についてお聞かせ下さい。
 戦前の中国で欧米の文化には接していましたし、新幹線もカラーテレビも、開発が進められているという話は聞いていましたので、物質的な違和感はさほどありませんでした。それよりも、精神的な基盤と申しますか、思想的なものが全く変化してしまったことに、大変な戸惑いを感じました。報道関係の攻勢で、帰還直後はともかく人が怖く、当時の日本には自分の居場所がなかったような気がします。30年の空白を埋め、社会に復帰し順応するにはどうすれば良いか、虚脱状態の日々が続く中、戦後ブラジルに移住していた兄の誘いもあり、ブラジルに渡りました。
 昭和50年、ブラジル中西部ボリビア国境にほど近い南マット・グロッソ州のバルゼア・アレグレ移住地に入り、国際協力事業団から1200ヘクタール(1200町歩)の土地を分譲してもらい、ジャングルの原野を切り開き、牧場の開拓に取り掛かりました。ルバング島のジャングルで牛の生態には精通していましたし、牛と自然を相手の牧畜なら、自分らしく生きられるのではと、新たな希望を持つことが出来ました。
 52歳からの再出発、自ら労働の先頭に立ち、不眠不休の数年間を過ごしました。軌道に乗るまでの10年間は、資金が出ていくばかりの苦しい生活が続きましたが、現在は1800頭の肉牛を飼育し、年間400頭ほどを生産し、順調な牧場経営ができるようになりました。牧場での生活は、早朝5時に起き、馬に乗って3時間半ほど場内をパトロールし、放牧牛の状態や牧草の点検をします。また、経営者として1年先の年間事業計画を検討するなど、毎日が忙しく過ぎていきます。
出版書籍
ブラジルにて
インタビュー風景
厳しい自然と共存されてきた小野田さんにとって、生活あるいはお仕事上での信条、信念とはどのようなことでしょうか。
 親に反発し17歳で家を飛び出したように、もともと負けん気の強い性格でしたから、常に自分のやることには、自分で責任を持ちたいと思っていました。一度目標を持ってことに立ち向かったら、簡単には諦めない。執念深く、しぶとく、くじけずに頑張ることが信条です。言葉にすれば「不撓不屈」の精神です。
平成元年には財団法人「小野田自然塾」を設立、青少年の育成にご尽力されていますが、そのいきさつや、活動の内容をお聞かせ下さい。
 ブラジルに移住して数年後、邦字新聞で「金属バット事件(昭和55年、大学受験の浪人生が、父母を金属バットで殴り殺した悲惨な事件)」を知り、非常にショックを受けました。経済的に豊かになった日本で、子供たちが何かに追い詰められ、歪んでしまっているという感を強く持ちました。牧場開拓に着手して約10年、私自身の生活も軌道に乗り出した頃でしたので、日本の子供たちの役に立てることが残りの人生の中でできるのではと考え、昭和59年に第1回の野外キャンプ「自然塾」を富士山麓で開催しました。子供たちが自然と向き合うことで、その厳しさや素晴らしさを体験すると同時に、人間の本質に目覚め、自己を見つめ、目的を持ち、逞しく生きて欲しいと願ったのです。  平成元年に財団法人小野田自然塾設立後、平成3年には専用のキャンプ地を福島県塙町に設け、毎年夏の7?8月を中心に野外活動の指導をしています。これまでに延べ2万人ほどの子供たちが参加してくれましたが、今年(平成16年)からは更に活動を充実させ、家族(親子)参加のキャンプを開催しています。子供だけでなく、彼らを育てる親にも野外の実地体験をしてもらい、いろいろなことを学んでもらいたいと思っています。
 ルバング島にいた頃、人生は60歳までと思っていましたが、今年で82歳を迎えることができました。あとわずかの人生かもしれませんが、生きている限り、日本のために、子供たちのために役に立ちたい、という気持ちに変わりはありません。また昨年より「生きる」−親も変われば子も変わる−をテーマに全国講演行脚をしています。
 「小野田自然塾」の詳しい活動状況はウェブサイト(http://www.andec.com/onoda/)で紹介していますので、興味のある方はぜひ一度ご覧になり、キャンプや講演会にご参加下さい。
インタビュー風景
インタビュー風景
中央区との関わりについてお聞かせ下さい。
 第1回の自然塾を始めた頃に、準備やキャンプの実施などでブラジルとの往復が年2回程になり、日本での活動の本拠地として、中央区築地に事務所を設けたのがきっかけです。その後住まいを佃に移し、中央区との関わりは20年程になります。家内ともども、先進性と古い街並みが同居したこの地域が大変気に入っています。
 家は、公園の緑に囲まれ住み心地が良く、前の堀には水が流れています。講演などで全国に出かける機会が多いので交通の便が良いことも魅力のひとつです。この付近は都会の真ん中でありながら、静かで自然が残っているところが良いですね。私の実家の紋は三つ鱗、佃の住吉神社の龍神様と同じで、この佃に導かれて来たご縁も感じています。
 現在は、日本の冬場の3ヶ月間をブラジルの牧場で過ごす以外は日本で活動するという生活です。人情豊かな佃の人々に囲まれて暮らせるのが、私にとっては心和み落ち着く場所でもあり、幸せです。
地域との交流、また活性化のためにお手伝いされていることがございますか。
 ここ5?6年、高層マンションが増え、この地域にもずいぶん新しい住民の方達が増えてきています。公園でベビーカーを牽いた若いお母さんたちをよく見かけるようになりました。若い人たちのパワーは、地域のために活気をもたらしますので、とても良い傾向だと思います。
 佃は古くからの住民の方も多いし、人情味も厚く、安心して近所付き合いのできる町です。そうした地域社会の良さを今後も引き継いでいって欲しいと思います。私自身は、町会長の勧めで、公民館で講演をさせていただきました。生きることの意味、自然と共存することの大切さを少しでも多くの方に伝えることができればと思います。
これまでの人生で、印象的な出会いや出来事がございましたらお聞かせ下さい。
 幸いにも生きて日本に帰ることができましたが、翌年ブラジル移住を表明した時に「国を挙げての救援活動でせっかくジャングルから救出されたのに、日本を捨てるとは何事か」「恩知らず」などと、批難中傷の言葉を浴びました。その中で、ある漫画家の先生が「長い年月、国に縛られた人生を費やしてきたのだから、これからは自由に、小野田さんの好きなことをやってもいいのではないか」と、私の新たな目標を応援して下さいました。あの時の言葉はとても嬉しく、今でも忘れられません。
インタビュー風景
インタビュー風景
最後に、次世代を担う若者たちに、アドバイスやメッセージをひと言いただけますか。
 自分の本質を見い出し、目標を持って、逞しく生きて欲しいと思います。私の若い頃と異なり、現在の平和な日本の日常では、飢えや死を意識しないで生きて行けます。だからこそ、真摯に生きることを考えて欲しいと思います。人はひとりでは生きられません。社会の中で生きるには、ルールを守り、自制することも必要でしょう。自らの心を鍛え、自分の行動には責任を持って、逞しく、のびのびと生き抜いて行って下さい。

2004年8月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
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