東京中央ネットロゴ NPO(特定非営利活動)法人東京中央ネット 東京中央ネットは中央区のポータルサイトです。
東京中央ビジネスナビ参加企業について
HOME > 今月の特集 > 今月の顔2004.9
今月の顔-2004.9 バックナンバーはこちら
株式会社ライツ取締役、マラソンランナー 有森裕子
今回の今月の顔は、バルセロナ大会(1992年) 2位、アトランタ大会(1996年) 3位と、二度のオリンピック女子マラソン・メダリストの有森裕子さんです。1996年にプロ宣言以来、アスリートのマネージメント会社「(株)ライツ」取締役、NPO「ハート・オブ・ゴールド」代表理事や国連人口基金の親善大使として、国内外の社会活動にご活躍されています。スポーツのもたらす素晴らしさ、可能性の追求とともに、「ライツ」の本拠地、中央区での地域交流活動のお話など、さわやかに語ってくださいました。

インタビュー映像がご覧いただけます。

Windows Media Player ソフトのダウンロード Windows Media Player BB Windows Media Player 56K Real Player ソフトのダウンロード Real Player 56K Real Player BB

【座右の銘】よろこびを力に略歴
昭和41(1966)年12月 岡山県生まれ
昭和60(1985)年3月  就実高校卒業
昭和64(1989)年3月  日本体育大学卒業
同  年   4月  株式会社リクルート入社
平成9(1997)年 1月  リクルートAC(アスリートクラブ)所属
平成10(1998)年10月  NPO「ハート・オブ・ゴールド」設立、代表就任
平成14(2002)年1月  国連人口基金 親善大使就任
同    年   4月  株式会社ライツ設立 取締役就任
その他役職 日本陸上競技連盟女性委員会特別委員、国際陸上競技連盟女性委員会委員、
2005年スペシャルオリンピックス冬季世界大会・長野「500万人トーチラン」発起人、おかやま国体特別応援団「キラリ☆トライアングル」メンバー。
競技歴
大阪国際女子マラソン6位(1990年)、同2位(1991年)、世界陸上選手権女子マラソン4位(1991年)、バルセロナ・オリンピック女子マラソン2位(1992年)、北海道マラソン優勝(1995年)、アトランタ・オリンピック女子マラソン3位(1996年)、ボストンマラソン3位(1999年) 、大阪国際女子マラソン9位(2000年)、ニュヨークマラソン10位(2000年)、東京国際女子マラソン10位(2001年)。自己ベストは2時間26分39秒(1999年ボストンマラソン)。
練習風景
マラソンをはじめられたきっかけ、トップランナーとして活躍されるまでの簡単な経緯をお聞かせ下さい。  小学校5年の時、憧れの先生が顧問をしていた陸上部に入ったのが「走ること」との出会いでした。苦手なことが多く、何ごとにも自信のもてなかった私に「頑張ればきっと何かできるようになる!」とかけてくださった先生のひと言が、それ以降、支えになりました。中学校では陸上部がなくバスケットをしていましたが、運動会では800m走に3年間出場し、優勝できたことなどが走ることへのささやかな自信に繋がりました。高校から大学時代にかけても陸上部で頑張っていましたが、足の故障など体調をこわし、これと言って誇れる記録は出せませんでした。体育の教師を目指していたのですが、どうしても「走ること」へのこだわりを捨てきれず、実業団に進む道を選びました。当時のリクルートランニングクラブ小出義雄監督が、私の熱意とチャレンジ精神を受け止めてくださいました。さらには監督の勧めにより、長距離のマラソンへ転向し、オリンピックという大きな目標、その夢の実現に向けての新たなスタートを切ることになりました。
厳しい競技者生活で身につけられたことはどのようなことでしょうか。   何ごとも諦めないという強い気持ち、頑張れば必ず良い結果がでるという信念です。競技を通して、自分の持っている身体の能力を全てぶつけて行くと同時に、人間は持っている素質だけで物事が決まるのではなく「気持ち」でカバー出来ることを知りました。とくにマラソン競技は、自分自身との闘いと言われるように、精神的なものが占めるウエイトが大きいのです。強靭な精神を磨くことにより、可能性がさらに開けてくるということを、身をもって感じました。アトランタオリンピック後の1996年末、プロ宣言をされて、日本のアスリートとしての新しい道を切り開いてこられましたが、有森さんにとって「走ること」の意味とはどのようなことでしょうか。   私にとって「走ること」は、生きていくための手段、仕事でもあり、自身の存在をアピールするもの、人生そのものと言って良いでしょう。こうした思いから、アトランタ五輪後、日本陸上競技連盟(陸連)に「走ることを活かした幅広い主体的な活動をしていきたい」と、プロとしての活動を許可してくださるよう要望しました。スポーツに関してアマチュア意識の強い日本では、異質の感覚だったのです。選手として鍛錬し、身につけたものを一生の仕事として活かし、生きていくために活用したいと思うことは、選手個人にとっては当然のことですし、その選手を支え育ててきた社会にとっても有効なことだと思うのです。スポーツ選手だけが、そのプロとしての選択肢を制限されているのに違和感を覚え、いずれは変わるものだと信じていました。しかし、オリンピック後の時点で私自身が前に進むために、あえてはっきりと声に出して言わなければならなかったのです。通念として浸透していることを変えようとするわけですから、一気に改革することは難しいと思っていましたが、1998年には陸連の規定改正で、選手個人のプロ活動が大幅に認められ、徐々に社会の中で「職業はアスリート」という形が、受け入れて頂けるようになりました。
インタビュー風景
アンコールワットで行われた国際ハーフマラソン2003の様子(中央は有森さん)

現在とくに力を注いでいらっしゃるお仕事についてお聞かせ下さい。  NPO「ハート・オブ・ゴールド」は、スポーツを通して苦境にある人々や子供たちに、生きる力と勇気をもつきっかけを与えられればと、自立支援を目的に立ち上げた組織です。1996年のオリンピック後に、カンボジアという国との出会い、アンコールワットの国際ハーフマラソン大会に関わり、競技という世界しか知らなかった私に、スポーツの持つ大きな可能性、社会における必要性を強く認識させてくれました。
 カンボジアは世界最悪の地雷汚染国といわれ、4万人もの人が対人地雷によって手足を失い、今もなお犠牲者が後を絶ちません。アンコールワットのマラソン大会は、地雷被害者に義足を贈る事を目的として開催されるようになった大会で、今年(2004年)の12月の大会で第9回をむかえます。参加者も年々増え、世界19カ国、1500人ほどの人が集うようになりました。この大会の運営、さらにはカンボジアの人たち、子供たちの自立支援にむけた様々な活動を展開しています。社会貢献、国際貢献というとオーバーに捉えがちですが、“できる事を、できる人が、できる限り続けよう!”の気持ちで、まず世界の問題に目をむけることが大切なのではないかと思います。ご協力くださる仲間(個人でも法人でも可)を募っています。また「アンコールワット国際ハーフマラソン」にはどなたでも参加できますので、興味のある方はお問い合わせ下さい。ホームページで詳しい内容がご覧頂けます。http://www.hofg.org/ 
 2002年から国連人口基金(本部・ニューヨーク)の親善大使としての活動もしています。一般にはあまりよく知られていませんが、国連人口基金(UNFPA)は、「リプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)」をキーワードに、世界140ヵ国以上で、家族計画やHVI/AIDS 予防、妊産婦の健康推進などの活動に積極的に取り組んでいる国連機関です。これまでカンボジア、インドやタイなどを視察し、各国の現状を日本の皆さんに知っていただく広報を展開するとともに、日本でも増加の傾向にあるエイズ予防の重要さをアピールしています。今年(2004年)7月には、人口基金東京事務所長の池上清子さんと対談形式でわかりやすく解説した入門書「有森裕子と読む人口問題ガイドブック――知っておきたい世界のこと、からだのこと」(国際開発ジャーナル社刊)を刊行しました。これからの時代を担う若い方たちに、ぜひ興味を持って見ていただきたいと思います。
 中央区勝どきに設立した(株)ライツは、私を含めプロアスリートの道を進もうとしている人たちの活動を支援し、アスリートたちの持つ様々な能力を社会に還元していくことを目的に、リクルート時代からサポートをしてくれていたパートナーとともに平成14年に設立した会社です。アスリートやスポーツ文化人のマネージメント&サポートをはじめ、スポーツイベント、スポーツ教室、講演会等の企画・運営などを行っています。また、陸上に限らず、野球、水泳、ゴルフ、サッカー、ボクシング、障害者スポーツなどに関わりのあるメンバーのネットワーク化をはかると同時に、個人の活動やイベントなどの情報も紹介しています。(株)ライツのホームページはhttp://www.s-rights.co.jp/

中央区との関わりについてお聞かせ下さい。   リクルートの本社が銀座にありましたから、以前から中央区とは縁がありました。焼肉、フランス料理のお店など、ほとんどが“美味しいものを食べに来る所”という感じでした。(株)ライツのオフィスをこの勝どきに決めたのは、交通の便利さもありましたし、環境としては賑やか過ぎず、新しい仕事のスタートが落ち着いて切れると思ったからです。実際に移って来て、都心にありながら静かな環境で、仕事場としての居心地は大変良いです。現在仕事の関係で、年間の四分の三ぐらい日本にいますが、全国各地を飛び回っているので、なかなかゆっくりここで過ごせないのがちょっと残念です。地域の方たちとの交流もスムースに進んでいると伺いましたが。   オフィスを開いてすぐの頃でしたか、お隣の月島第2小学校に「カンボジアの子供たちについて生徒さんたちに話させてください」とお願いに伺いました。たまたま走ることのお好きな校長先生で、理解とご協力を賜り、講演をさせていただきました。子供たちとの交流もでき、この地域がより身近に感じられ、すぐに溶け込むことが出来ました。また昨年(2003年)10月に月島運動場で行われた「区民スポーツの日」では、トークショーを行いました。途中雨が降り始めたのですが、みなさん傘をさして熱心に聞いて下さり、子供たちとも実際に一緒に走って、とても楽しく感激したのを覚えています。ハート・オブ・ゴールドや人口基金の仕事にも通じることですが、ともかく現場に出て、実際に見聞きし触れる。なによりも、直に接することがとても大切なことだと思います。これからもどんどん機会があれば出て行きたいと思っています。
今後の活動についてお聞かせ下さい。  現在抱えている仕事を、今まで以上にしっかりとこなして行きたいと思っています。来年(2005年)2月には長野でスペシャルオリンピックスという知的障害者のための世界大会が開かれます。こういう大会があることさえあまり知られていない状況ですので「500万人トーチラン」を企画、発起人になり、全国各地トーチを繋いで、知的障害を持つ方たちへの一般の理解を深めたいと思っています。また、来年(2005年)秋には私の出身地で「おかやま国体」が開催されます。同郷の木原光知子さん(水泳)、森末慎二さん(体操)と3人で特別応援団「キラリ☆トライアングル」として大会を盛り上げて行きます。応援はもちろんのことですが、これまで国体出場のチャンスがありませんでしたので「そろそろ出番かな!」と、ひそかに走ることを楽しみにしています。今回からハーフマラソンが新しい種目に加えられるという情報もありますので・・・。
インタビュー風景
インタビュー風景

厳しい競技の世界で経験を積まれ、現在も多岐にわたるお仕事をされていますが、有森さんの生活上あるいはお仕事上での信条はどのようなことでしょうか。   頑張れることを見つけ、一生懸命頑張ってきたことが、私に大きな勇気と自信を与えてくれました。今は「私にしか出来ないこと」を待っていてくれる人がいる、子供たちの笑顔が私の活動の支えとなっています。ひとりでも多くの人と、元気や勇気を分かち合いたい、そして“よろこび”を力にして、前に進んで行きたいと思っています。
これまでの人生の中で、心に残る人との出会いや出来事がございましたらお聞かせ下さい。   いろいろと節目の多かったこれまでの人生の中で、迷ったり、何かを決断しなくてはならなかった時、その時々で、力となり支えとなってくれた身近な人たちとの、たくさんの出会いがありました。どれも忘れられない大切なものです。恩師という意味では、小学校、高校時代の陸上部の先生、リクルートへの入社を後押ししてくださった小出義雄監督との出会いは、“走ること”を続けてこられた私の中で大きな存在だったと言えるでしょう。
ご自身を含めて、次世代を担う若者たちへのメッセージをひと言お願いいたします。  若い時は、夢や希望がたくさんありすぎて、何かひとつに絞って頑張ることがなかなか難しいものです。“これぞ”というものを選びきれないでいる人が多いのではないかと思います。私自身は“走ること”が頑張れるものであるということを、見つることが出来たわけですが、きっかけはごく身近なことに過ぎませんでした。小学校の運動会で“走ること”だったのです。ですからすぐに大きな夢や目標を掲げようと思わずに、もっと身近なことに目を向けてみてください。自分の周りには、素晴らしいことに繋がる環境がきっとあるはずです。夢に近づく過程として、身近なことに目を向け、頑張ることを力にして成長していって欲しいと思います。


※記事の組織名や肩書は掲載当時のものです。  
copyright2004 Tokyochuo.net All Rights Reserved.
東京中央ネットについて 東京中央ビジネスナビについて このサイトについて プライバシーポリシー