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略歴
昭和19年4月8日生まれ
昭和41年 株式会社明治屋 取締役就任
昭和42年 慶應義塾大学 経済学部卒業
西武百貨店入社
昭和45年 株式会社本社企画室長就任
昭和47年 株式会社 明治屋 常務取締役就任
昭和50年   同      専務取締役就任
  同      代表取締役副社長就任
昭和51年   同      代表取締役社長就任 現在に至る
その他の役職 日本加工食品卸協会 副会長
全国卸売酒販組合  顧問
東京卸売酒販組合  顧問
趣味は、自動車とゴルフ

※手桶の水
「手桶の水はこちらに寄せ様とするとむこうへ行き、むこうへ押し出すと皆こちらに帰ってくる。
すなわち人のために一生懸命尽くすことが結果自分に帰って来るという考え方。」
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 今回の「今月の顔」は、株式会社明治屋社長、磯野計一さんです。明治屋は、明治18年(1885)にシップチャンドラーとして横浜で創業、昭和8年に東京中央区銀座に進出し、製造・卸・小売り・輸出入という業務を行っています。その老舗を若干31歳で6代目の社長として受け継ぎ、今日を迎えられた磯野社長の若かりし頃の想い出、現在のお考えなどをお聞かせいただきました。

明治屋は、1885年に横浜で創業されたということですが、どのような経緯で銀座に出てこられたのでしょうか。
 明治屋の創業者は磯野計といい、私の曾祖父に当たります。創業者は、岡山県の津山松平藩の藩士の息子で東京大学の2期生として入学しました。当時東京大学は、東京開成学校といい、明治維新政府の役人をつくるため、各藩の子弟を集めて出来た学校です。卒業後は維新政府には入らず弁護士の仕事をしていましたが、三菱の岩崎弥太郎に見出され、ノリスアンドジョイナーというロンドンの会社に入り商業の勉強をしました。当時三菱は三菱汽船という回船業をしていて、イギリスのグラスゴーで初めて鉄の船を買い付けます。船を日本に回航するにあたり、留学を終えた磯野計が事務長として乗って帰ることになり、港々を廻り食料品、その他必要なものを購入しました。つまり、シップチャンドラー(船舶に必要な資材・食糧などの船用品納入業者)として大事なことを学んで帰ってきたわけです。
磯野計は、日本が貿易立国になるには、外国船に日本の港に来てもらわないと成り立たちません。当時、横浜、神戸、門司等は、外国のシップチャンドラーが暴利をむさぼっていました。磯野計はリーズナブルなシップチャンドラーを商い、外国船の間で好評判を得たようです。また、その場所が横浜外国人居留区でありましたので、その外国人の要望で、輸入品の小売商もはじめました。それが今から117年前、横浜でスタートした頃の状況です。やがて東京に進出し、今の銀座店がある2丁目が東京の発祥です。その後、京橋のビルを建て、66年目になりました。
当時、地下鉄銀座線の工事中で、日本で初めて地下鉄とビルが一体化しました。三越さんの場合は地下道で結んでいますが、ビルと駅が一緒というのは明治屋が初めてでした。朝日新聞の一面に「明治屋京橋ビルオープン」の記事が出たほどです。
その頃の三代目社長磯野長蔵はロンドンに留学した当時感銘を受けたクロッスアンドブラックウェルという香辛料の会社のロンドンの本社を外観に、フォートナムメーソンという小売業の売場のイメージにデザインしたそうです。今でも、建築学会で注目され見学者がいらっしゃいます。
このビルを竹中さんが調べたところ、下は松杭で支えられていて地下水がある限り安全と言うことです。丸の内側は地下水が大分減ってきた様ですが、こちら側は幸い地下水が残っているので、関東大震災の3倍まで大丈夫ということですから、地震が起きたら明治屋のビルに避難していただければいいのはないでしょうか。食料品もいっぱいありますし(笑)。
 
社長は、幼い頃から京橋に良くいらっしゃったのでしょうか。
 私が小さい頃は、このビルの周辺にはレンガの洋館のような立派なビルが沢山並んでい隣の千代田生命さん、角の第一生命さんも素晴らしい洋館でした。日本橋に河岸があったようにここにも京橋河岸があり、料理屋、道具屋等、木造の店がかなりありました。戦争で焼け残ったのは非常に少なく、この京橋ビルも火がはいりましたが、幸に3階、4階で消し止めることができました。
終戦後、軍人専用の食料品売場をPX、軍属専用の店をOSSと言っておりました。マッカーサーの顧問団として軍属の方々が日本に大勢来たのですが、その人たちが買い物をする場所がないというので、マッカーサーの命令で当社は全国に20カ所ほどOSSを作りました。そのうちの一つがこの京橋の店です。ここにOSS本部もあり、私もよく遊びに来た思い出があります。
 
明治屋に戻られた昭和45年頃の京橋界隈はどのようでしたでしょうか。
 京橋周辺はまだ古いビルが残っていました。精工舎さん、山形屋さん、金鳳堂さん、パイロットさんも私どものビルの前にあり、また、明治乳業、明治製菓、そしてアサヒビールも角の所にありました。日本橋に次ぐ商業の街という雰囲気でしたね。ここには元々キリンビールもありましたしね。
 
中央区では、日本橋、八重洲、京橋の活性化ということでいろいろやっておりますが……。
 私としては銀座があれだけ活性化しているのに日本橋が取り残された感はありますね。しかし、名橋日本橋保存会の努力により、正月の学生駅伝の復路を通したことが良かったと思います。私の夢は、日本橋と銀座を日曜日に歩行者天国で全部結び、お客様が京橋を通り日本橋、銀座などに行けるようにすることです。人通りが増えて、この街が日曜日も繁盛するよう尽力して行きたいと思っております。
 
現在は、6代目の社長に当たられるということですが、仕事上で代々受け継がれている信条や社訓のようなものはおありでしょうか。
 会社の考え方としては、「いつも一番良いものを」という社是のもと常にし品質と信用を大事にすることです。磯野計や磯野長蔵は、これだけ長く仕事をしている中でいろいろなチャンスがあったと思いますが、本業以外のことにはいっさい手を出しませんでした。製造・卸・小売り・輸出入・シップチャンドラー以外の、例えば倉庫についても、自分の在庫品のための倉庫はあっても、必要な土地以外は買いませんでした。本業以外に手を出さないというのが明治屋の信条の一つでしょうね。
 
社長になられてから、新しく始めたことはどのようなことでしょうか。
 私が社長に就任したのは、31歳の時でしたので、今考えると冷汗が出ます。それからの10年間は、当時の先輩の皆さんが全てカバーをして下さっていた。私が何かやっても、うまく修正していただいたことを深く感謝しております。
今日、私がするべきことは、何か新しいことをというよりも、環境が大きく変わってきている中で、現在やっていることをどうやって新しい軌道に乗せるかということが大事だと思います。
 
次世代をになう若者たちに一言お願いします。
 我々も先輩たちから見れば決して出来の良い方ではないとは思います。しかし、戦後間もない、日本の一番苦しいときを幼心に見ながら育ってきた我々からみれば、現在の物に溢れた中で育っている若者にはない経験があります。日本は資源のない国ですが、それを発展させたことに感謝し、真面目にそして熱心に仕事をする人になってほしい。
東南アジアに行って感じるのは、本来なら日本がリーダーシップを握っていなければならないはずが、現在は日本に魅力を感じてもらえないというのが非常に残念です。
これからの若い人たちには、是非国際化の時代に対応できる教養や学力をしっかり身につけて世界をリードしていっていただきたいですね。
 

※記事の組織名や肩書は掲載当時のものです。  
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