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略歴
昭和5年8月24日 東京生まれ
昭和29年 3月 慶應義塾大学文学部国文科 卒業 卒業後、大阪の料亭での修業を経て、家業である新橋の老舗料亭 「金田中」に入る。
昭和43年 父君鐵雄氏の後を継いで「金田中」2代目当主に。
昭和60年 新橋演舞場株式会社 5代目代表取締役社長就任、現在に至る。
全国料理環境衛生同業組合連合会および東京都料理環境衛生同業組合常任相談役、
東京新橋組合常任相談役、日本演劇興業協会理事、社団法人日本料理文化振興協会理事長。
演劇や料理に造詣深く、「新橋と演舞場の七十年」「わが人生の師」「食の美学」など著書多数。
趣味は、読書とゴルフ。

※守真志満
しゅしんしまん「千字文(中国六朝時代の詩)」より、
真を守れば志はみつる(真を守る=自然のままの本性をまっとうする)。
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 今回の「今月の顔」は、新橋演舞場の社長であり、料亭「金田中」のご主人としてもご活躍の岡副昭吾さんです。若い頃から演劇には造詣が深く、「東をどり」の企画プロデュースを手がけるなど、花柳界の発展に尽力されてきた岡副社長に、新橋と演舞場との密接な繋がり、サービス精神の根底に脈打つ由緒正しい伝統と気質など、先代(父君鐵雄氏)のお話しを交えて伺いました。

新橋演舞場が創建されたのは大正14(1925)年のことと伺っていますが、設立から現在に至るまでの経緯を簡単に伺わせてください。
 この新橋は、江戸時代の後半から芸妓屋、料理屋、待合などが集まって、明治・大正・昭和と隆盛してきた土地で、いわゆる新橋花柳界と称されていました。大正期に川村徳太郎(森川家)という方が、新橋芸妓の技芸の育成のために演舞場創建がぜひとも必要と一念発起され、芸者組合、料理屋組合、当時のお客様の力などを結集して設立されたと聞いております。建設途中の大正12年には、関東大震災に遭遇し工事中断など不測の事態もありましたが、大正14年の4月に「東をどり」のこけら落としで華々しく開場したそうです。
 以来、現在に至る「東をどり」をはじめ、 昭和15年以降は松竹株式会社と提携して、歌舞伎、新派、新国劇、新喜劇、前進座など多彩なジャンルでの興業を行なってまいりました。
 昭和20年5月の東京大空襲で、焼夷弾を浴び、わずかに外周りを残すだけの無残な姿になりましたが、私の父(4代目代表取締役社長、岡副鐵雄)たちが復興に奔走し、戦後いちはやく昭和23年3月に開場しました。さらに、建物および設備の老朽化のため、昭和54年から取り壊し改築による3年間の休場を経て、昭和57年、創建当時の外観のイメージを引き継いで現在の演舞場が新装再開場されました。
 私は、昭和60年に父からバトンタッチされ、何か新しい事を目指すというよりは、父を含めた先人たちの築き上げてきた路線を継承し、しっかりと守ることに努力を傾注してきました。
 
「東をどり」は今年で78回目ということですが、今年の観どころなどお聞かせください。
 演舞場設立の目的でもあった、芸者衆の技芸(踊りをはじめ、長唄、清元、常磐津などの古典芸能)の発表の会が「東をどり」です。京都の「都をどり」を手本にして始められ、戦後昭和23年に8年間の空白期をおいて再開されました。当時は演劇界が復興の緒についたばかりの頃でしたが、新橋花柳界にはまり千代という立役(男役)の名女優が登場し15代目市村羽左右衛門の女性版の再来かというご評価を頂きました。このスターの出現によって、一般の方たちにも見ていただける興業として大変な人気を博し、花柳界の日頃の研鑚が百花繚乱と開花したのです。また、演舞場の歴史と新橋の由緒ある劇場の強い結びつきが華開いたともいえます。先代の企画で、横山大観画伯の膨大な絵巻「生々流転」を北条秀司先生の脚色で舞踏劇化するなど、芸術的な観点からも高い評価を頂くようになりました。
 「東をどり」は、序幕、中幕、追い出し物の三部構成になっており、芸者らしい衣装、踊りで華やかに幕を開け、中幕でその時代にあった新作物に挑戦し、追い出し(最後)にはポピュラーな俗曲、民謡などを盛り込んで、気持ちよく楽しんでお帰りいただくと言った趣向です。  かつては20日間、春秋2回の公演もありましたが、近年は春に一度の公演で、今年は5月28日から31日まで4日間行なわれます。中幕の出し物は、吉井勇先生作、平岩弓枝先生の新しい脚色で「光琳屏風」。華やかで楽しい舞台をご覧にいれようと、お稽古も始まっています。
 
岡副社長ご自身と中央区との関わりは、いつ頃からのことでしょうか。
 生まれは東京の北区ですが、小学校5年生の時に父がやっていた店の中央区銀座西七町目に移り住み、泰明小学校から、府立一中に進みました。戦後、昭和20年に父が「金田中」を引き受けて新橋に移ってきました。子供の頃より芝居好きで母によく連れて来てもらいました。歌舞伎座の立派な建物、演舞場の近代的な容姿に見とれ、お芝居を見ることが大変な喜びであった記憶があります。新橋に移ってからは、演舞場は目と鼻の先、ますます芝居好きが昂じて、花柳界にも自然に馴染んできたようです。建物はビルに変わりましたが、この界隈はさほど激変した町という感じではないですね。
 
大学を卒業後、金田中を継がれることになったのですね。
 ひとり息子ですからいずれは家業の後を継ぐのかなと言った、漠然とした感じはありました。大学で国文を専攻し学んでいるうちに家業がむしろ嫌になり、在学中から「東をどり」の演出に加わるなど、演劇関連のことに熱心に取り組んでいました。結局は母の涙の説得で、不本意ながら継ぐことになり、修行の為に、当時大阪で有名だった料亭の「つる家」さんにお世話になることになりました。ご主人には大変可愛がっていただき、京都の祇園や大阪の料亭にお供し、楽しい修業をしていたわけですが、昭和30年、母の急逝でその生活は一年ほどでピリオドがうたれました。以後父について毎日築地の魚河岸に通い、料理屋にとり一番要の素材選び、献立を立てることなどを教えられました。
 
演舞場と金田中の経営という両者に共通すること、また先代から受け継がれている信条のようものがございますか。
 ともにお客様へのサービスということで共通する点はたくさんあります。演舞場では、楽しいお芝居を満喫していただく、料理屋はお食事と雰囲気とサービスでおもてなしをする。その精神の根底には、新橋花柳界に営々として流れている由緒正しい伝統と、進取の気質、常に時代を一歩先取りしていこうという気持ちがあるのではないかと思います。父はバトンタッチをしたら、一切口をはさまず自由に思うがままにやれという人でしたので、私なりの考えで今日まで、自由にやってくることが出来ました。これはたいへん幸せな事だと思います。
 
これまでの人生の中で、とくに印象深く思い出に残ることがら、心に残る出会いがありましたらお聞かせください。
 料理屋と言うのは、毎日のお客様との接触はおかみの仕事で、主人は直接顔を出しません。そこで私が金田中を継いでからは毎年欠かさずお中元、お歳暮の時期に店で作ったものを携えて家内と二人でご挨拶に伺っております。政界、財界や文化人の方々で皆様お忙しいにもかかわらず、寸暇を割いて会って下さり、親しくお話しさせていただきました。母の亡き後、若い私ども夫婦が金田中をやっていくうえで、様々なアドバイスや、温かい励まし、ご叱責などもいただき、それが私どもの大変な後ろ盾というか支えになりました。そうしたお客様おひとりおひとりが、私を指導し育ててくださったと感謝しております。
 また、海外進出の第一歩となった香港の出店の時期に、プライベートで親しくお付きあいさせて頂いている、佐々淳行さん(元内閣安全保障室初代室長)と出会い、その交友も私の人生での大きな財産です。
 
お仕事も、お住まいも中央区ということですが、この地域の魅力というのはどんなことだと思われますか。
 長い年月この地で暮らして参りましたが、買い物ひとつにしてもいたって便利で、たいへん住み心地の良い、過ごしやすいところです。近ぢかこの地区のお祭りもありますが、良い意味での江戸前の雰囲気が残っていますし、ご近所づきあいも淡々とした良いお付き合いが出き過ごしやすい町だと思います。
 料理組合の役員をさせていただいた関係で、全国各地を飛び回って時期もあり、知らない場所はないぐらいですが、やはり銀座に居るというだけで落ち着きます。新橋、銀座界隈の町の空気が、身に馴染んでいるということでしょうか。
 
中央区の次世代を担う若い人たちに、なにかひと言お願いいたします。
 時代のうねりは、その時その時で変化して行きます。その時にバイタリティーを持って生きているということは、若者の特権です。父が一言も口を差しはさまず、物言わぬ教育してくれたように、私も何も言うことはありません。若い人たちを信頼し、任せておけば大丈夫だと思っています。どうぞ若さを満喫し、思うがまま自由にやっていってください。
 

2002年4月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
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