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略歴
大正7年11月5日   愛媛県出身
昭和17年 3月   日本大学法文学部 卒業
卒業後、日本興業銀行入行
日興證券株式会社に転籍し、銀座支店長、静岡支店長、横浜支店長を歴任。
昭和39年   日興企業株式会社代表取締役就任
昭和40年 5月   株式会社西銀座デパート取締役就任
昭和46年 11月   同社 専務取締役(日興企業を退社し専任に)
昭和55年 10月   同社 代表取締役社長就任、現在に至る。 
昭和60年 11月   数寄屋橋ショッピングセンター株式会社代表取締役社長就任、現在に至る。
その他の役職   西銀座通会会長、銀座経営者懇話会会長など、役職多数。
趣味は、哥澤(うたざわ)、小唄、写真、ゴルフ
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 今回の「今月の顔」は西銀座デパート社長の柳澤政一さんです。証券マンとして銀座に関わり、ショッピングセンターの先駆けとなった西銀座デパートをはじめ、銀座百店会などの設立に奔走。以来四半世紀、銀座をこよなく愛し、銀座の発展に尽くし、80歳を越えた現在もかくしゃくとして、銀座の将来に熱い思いを寄せる柳澤社長に、思い出深い銀座人たちとの出会いと交流のお話をまじえ、銀座の移り変わりを伺いました。
中央区銀座と関わりをもたれたのは、日興證券銀座支店開設の昭和29年と伺っていますが、その当時のお話しをお聞かせください。
 私が日興證券の銀座支店開設の責任者としてこの銀座に来たのは昭和29(1954)年1月、ちょうど戦後の復興が本格的に始まったばかりの頃でした。本社の秘書課長と兼任で半年ぐらいの予定でしたので、その間に、何か地元のお役に立つことが出来ないかと考えたのが、商店、飲食店を集めた「銀座百店会」の設立です。
 銀座通連合会会長の保坂幸治さんを中心に、三笠会館の谷善之丞、コックドールの伊藤佐太郎、天一の矢吹勇雄さんら12名が発起人となって、昭和29年4月に計画立案、10月に発足しました。また日本で初の試みとして作られたPR誌「銀座百点」は、当時みゆき通にあった文芸春秋社が協力して編集制作にあたってくれまして、昭和30年の1月に創刊され、以後多くの著名な文化人の執筆を得て品位あるタウン誌として評判になりました。 誰もが自分の商売のことで手いっぱいの時期でしたが、銀座という地域全体を盛り立てて行こうとするエネルギーは溢れるほどあり、次々と行動に繋げていった時代でした。
 
西銀座デパートの設立にも奔走されたということですが、その経緯を伺わせてください。
 ちょうどその頃、高速道路の建設があり、それにともなう高架下の有効利用の話が持ち上がっていました。コックドールの伊藤佐太郎さんたちが中心となり、地元商店が入るショッピングセンターにしようと、計画はできたものの残念ながら資金力がありませんでした。そこで、資金調達の役が金融機関の出身である私にまわってきたわけです。そこで、まず、昭和31(1956)年地元で銀座ショッピングセンターを設立し、資金を富士銀行を中心として、銀座の各金融機関より6億5千万円の融資を集め、西銀座デパートとして発足しました。開店は昭和33年の10月。晴海通りを隔て、西銀座の方には当時の銀座の有力商店、飲食店が入り、西銀座デパートとして、反対側は日本橋、八重洲の商店と共同で入り、数寄屋橋ショッピングセンター(現・銀座ファイブ)としてオープンしました。当時はこういう形態のものは珍しく、ショッピングセンターの日本での先駆け的存在だったでしょう。
 
当時、「大銀座まつり」の前身ともいわれる「柳まつり」というのが行なわれていたそうですね。
 復興しつつある銀座をアピールしようという気運は地域全体に盛り上がっており、若手の商店主たちが集まって「柳まつり」の企画が出てきました。しかし、ここでも問題は資金がないこと。そこで同業の証券4社(日興、山一、野村、大和)に声をかけ、当時で50万円の寄付を本社決済で出してもらい、「柳まつり」第一回の開催に協力しました。若い人たちの心がひとつになり、地域に密着し、街頭でマッチを配って宣伝するなど、素朴でしたが、たいへん良いイベントでした。その後「大銀座まつり」へとつながりました。
 
半世紀この銀座をご覧になり、魅力や特質をどのように感じられますか。
 これほど立地条件も環境も整った町は、世界中ほかのどこにも類を見ない町です。商店にしてもしっかりとした老舗があり、その時代その時代で新しい店が参入し、常に時代の先端性を受け入れ、古い土壌の上に積み重ね発展してきた町といえるのではないでしょうか。最近は世界の一流ブランド店が続々と銀座に出店してきていますが、これは銀座の将来にとってたいへん良いことだと思います。日本人だけでなく、世界中の人々、老若男女、誰でもが安心して訪れ、楽しめる繁華街--、古い良さと新しい物を合わせ持ち、常に流動していることが、銀座の尽きない魅力です。
 
これまでの人生の中で、とくに印象深く思い出に残ることがら、心に残る出会いがありましたらお聞かせください。
 私が銀座に来た時分に、地元のお店で日興證券銀座支店開店のレセプション会場を探していました。当時まだ木造建てだった三笠会館の谷善之丞さんとのお付き合いができ、そして彼の紹介で、コックドールの伊藤佐太郎さん、天一の矢吹勇雄さんと人脈が広がっていったわけです。彼らは戦後の銀座の復興をリードした「三人衆」といわれる素晴らしい人たちでした。
 皆さん大正末から昭和初期にかけて銀座に出て来て、裸一貫で立派な店を築き上げました。出会った頃は皆50代、少壮気鋭の経営者として、人間的にも非常に魅力的な先輩たちで、一回りも歳は違いましたが、親しくお付きあいさせていただきました。
 
長年柳並木の復活を提唱されておられますが、今いちばん力を注いでいらっしゃる事はなんでしょうか。
 昭和58(1983)年に有楽町にマリオンが出来て、西武が進出することになりました。デパート(大型店舗)が進出する時は地域商店街の認可がいるんですが、当時ここには商店街がありませんでした。そこで91社が集まり、西銀座通会をつくり私が会長となりました。その立場で外堀通りの柳並木復活に力を注いでいます。歌に聞かれる「銀座のやなぎ」が実際には30年以上も前に姿を消し、どこにも見られないのは寂しいかぎりで、昔からの街の風情を取り戻したいと切に願っていました。いろいろ経緯はありましたが、都議会議員の立石さんのお力添えで都にお願いして平成11(1999)年に実現に至り、6年計画でやっと半分ほど終わったところです。平成17年には1丁目から8丁目まで続く1.2キロに200本の柳並木が完成します。八重洲まで続く通りなので完成すれば銀座通りのように良くなるでしょう。これをきちんと見届けたいと思っています。
 さらに、私がしなければならないと思っている事は、「21世紀の銀座を考える会」(仮称)をつくり、これからの銀座を担う人たちに私の見てきたこれまでの銀座と銀座の繁栄をもたらした精神を伝えていきたいと思います。
 
銀座の発展にいろいろとご尽力されてきた柳澤社長のお仕事に対する信条とはどのようなことでしょうか。
 まず、自己を捨てて地域社会のため、周囲のこと、周りの人のために自分の出来る限りの力を傾注し、日々努力精進することです。そうしたことによって、結果は自ずからついて来ます。また、すべてに借勘定はつくらぬこと。その上にたった人間関係が、本当の信頼を生み、大きな仕事を成し遂げるための力になります。
 私はあくまで裏方に徹して来ただけです。バイタリティーある銀座の人たちに魅せられ、彼らの力になりたいと自分なりの努力をしてきたことが、銀座発展の一助となったのであれば、幸と思っています。
中央区の次世代を担う若い人たちに、なにかひと言お願いいたします。
 これからの銀座を担って行くのは、私が一緒にやってきた人たちの息子あるいは孫の世代です。若い後継者たちは、みんな知識は豊富だし弁もたつ、立派な人たちがたくさんいます。ただ、あえて言うなら信念を持って欲しいということですね。先代、先々代が築いてきたものを継承するだけでなく、何ごとにも自身の確固たる信念をもって取り組んでください。時代は変わっていますから、私たちと同じようにやれば良いということではありませんが、チャレンジする精神が多少希薄な気がします。守備より攻撃、前進を目指して頑張ってください。
 

※記事の組織名や肩書は掲載当時のものです。  
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