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座右の銘 念ずる

 
セントラルスポーツ株式会社社長 後藤 忠治
略歴
昭和16年 東京葛飾区生まれ
昭和39年3月 日本大学商学部卒業
同 年 株式会社大丸入社
同 年 同社退社
同 年12月 東京工機株式会社入社
昭和44年11月 同社退社
同 年12月 セントラルスポーツクラブ創業
昭和45年5月 セントラルスポーツクラブ(現セントラルスポーツ株式会社)設立
昭和51年5月 同社 代表取締役副社長就任
昭和52年5月 同社 代表取締役社長就任、現在に至る

役職 
(財)日本スポーツクラブ協会理事、(財)社会スポーツセンター理事、(財)日本マスターズ水泳協会評議員、(財)千葉県スポーツ振興財団振興基金審査員、東京商工会議所1号議員、学校法人市川学園評議員 ほか役職多数

競技国体出場連続12回、昭和39年第18回東京オリンピック100m自由形、400mリレー(4位入賞)に出場
趣味は、ゴルフ、ダイビング、フィッシング

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 今回の「今月の顔」は、セントラルスポーツ株式会社代表取締役社長の後藤忠治さんです。39年前の東京オリンピックに水泳選手として出場、次代に託すべく起業したスポーツクラブは、いまや年商300億円を越す一大スポーツ事業に発展。「0歳から一生涯の健康づくり」をテーマに、精力的にご活躍していらっしゃいます。2003年8月に開催された世界体操選手権、7月の世界水泳選手権での所属選手の活躍、「アテネオリンピック」に向けての抱負、「健康とスポーツ」などについて語っていただきました。
昭和44(1969)年に創業と伺いましたが、中央区との関わりについてお聞かせ下さい。
 私は、昭和39(1964)年の東京オリンピックに水泳競技の選手(自由形100mと400mリレー)として出場し、結果はリレー4位入賞と満足がいくものではありませんでした。その後は選手生活をきっぱりと引退し、ビジネスマンとして新たな挑戦をするべく、スポーツとは関係のない東京工機という会社でサラリーマン生活を送っていました。そのような生活の中で、恩師の村上勝芳監督(日大水泳部および東京オリンピック水泳競技監督)が、代々木のプールで子供たちの指導を黙々とされている姿を拝見したことが転機となりました。オリンピックでメダルを獲得できなかったのは、我々選手の努力不足であったにも係らず、監督は、その責任を一身に背負い、職も辞し、選手の育成に再び力を注いでおられました。選手であった私が逃げて良いのか、後進の育成、さらにはスポーツの振興こそが「わたしの持てる力を傾注し、やるべき仕事ではないか」と思い立ちました。昭和44(1969)年に同じオリンピック選手だった体操の小野喬、清子さん夫妻、遠藤幸雄さんらとともに、セントラルスポーツクラブを立ち上げ、翌年、株式会社として発足しました。「選手の育成」はもとより、「0歳から一生涯の健康づくりに貢献する」「スポーツを通して社会貢献を行う」というのが、会社設立の意図であり、その理念に基づいてこの30余年間、事業の発展に努めてまいりました。
 中央区との関わりは、昭和52(1977)年、京橋に本社を移転したのが初まりです。社名のセントラルにダブらせたわけではありませんが、東京の中央に本社を置いて「よし、頑張ってやっていこう!」と全国展開に向け気持ちを新たにしたことを記憶しています。その後、新橋に一時移転しましたが、現在の新川に移り10年ほどになります。箱崎のインターチェンジにも近いなど交通の便も良く、最適な環境だと思っています。
 
若くして(28歳)起業し、事業を発展させてこられましたが、お仕事をされる上での信条についてお聞かせ下さい。
 学生時代に鎌倉の円覚寺に座禅を組みに行き、朝比奈僧正から伺ったお話が印象深く残っています。「事を成すには運・鈍・根と言われるが、本当は順序がちがって鈍・根・運である」というものです。人は与えられたことを、根気良く一生懸命努力することによって、必ず道は開けるという意味です。私自身がスポーツで培った信念と、相通じるものを感じました。その言葉を私なりに言い換えて「念ずる」という気持ちを大切に、日々の生活、仕事上でも「創造・実行・努力」を実践してきたつもりです。
 
昭和52(1977)年、社長に就任され、とくに力を注いでこられたこと、また会社として業績向上の要因について、教えてください。
 初めて日本に民間のスポーツクラブが出来たのは、東京オリンピックの前後からでした。当時は、スイミングクラブ、体操クラブのような青少年育成を目的としたスクール主体のものでした。そのような中で我々は、オリンピックで競泳の銅メダル1個という結果を踏まえ「自分たちの果たせなかった夢を次代に託す」ことを願い、セントラルスポーツクラブをその5年後に発足させました。
 1970年代に入ると、専用の設備をもったスポーツクラブがオープンし始め、当社も自社所有1号店スイムクラブ千葉を、1976(昭和51)年にオープンしました。1981年にはアメリカのケネス・クーパー氏が来日して、エアロビクス運動、健康づくりの大切さを提唱、徐々にその認識が社会に浸透さなか、青少年に限らずさまざまな年代の人々を対象とする、プール、ジム、エアロビクスのスタジオなどを備えた、日本で初めての総合的なフィットネスクラブ(1号店新橋)を1983年にオープンさせました。フィットネスという名称をつかったのは、日本では弊社が最初でした。以来、全国展開を繰り広げ20年間で、店舗数160、会員数39万2千人と着実な伸びを示してきました。時流とはいえ、時代のニーズをいち早く的確にとらえ、それに応じた事業展開を推し進めてきたことが、現在の成果だと思っています。またスポーツ事業は、ハードとソフトの両面を提供するものであり、ハイテク化の時代にあっても、「人対人」のつながりはあくまでアナログであり、資質の高い社員一人ひとりの力に負うところが大きいと言えます。

 
1982年には、千葉県市川市に民間では特異な研究所を設立されていますが、内容についてご説明下さい。
 現代のスポーツ、ことにオリンピックなどハイレベルなテクニックを競う世界では、根性論と言いますか精神的なものだけでは、強くも勝つことも出来ません。全てのスポーツに必要な、瞬発力、持久力、柔軟性といった運動能力を、科学的、医学的、生理学的に分析し、それに基づいて能力開発のプログラムを作成することが、スポーツ研究所の仕事です。頂点を極める選手づくりの一環として、独自の研究機関はぜひとも必要でした。流水プールにおける筋力の対応度や、有酸素運動と持久力の関連、骨年齢の測定など、あらゆるデータに基づいた運動能力開発プログラムは、年齢や諸個人の身体能力に応じた効果的なトレーニング方法を提供でき、選手のみならず一般の方々の健康づくりにもおおいに役立っています。
 
1988年ソウルオリンピックで鈴木大地選手が金メダル、2003年世界体操選手権で鹿島丈博選手が個人2種目制覇・団体銅メダル獲得、冨田洋之選手が団体・個人総合で銅メダルを獲得。世界水泳選手権でも森田、稲田両選手の銅メダル獲得、また成長著しい伊藤選手と、アテネオリンピックに向け期待されていますが、現在の心境をお聞かせ下さい。
 次世代の選手育成という「夢」は着々と成果を上げ、うれしい限りです。少なくとも5名(世界体操選手権で活躍した鹿島丈博選手、冨田洋之選手、世界水泳選手権での森田智己選手、稲田法子選手、伊藤華英選手)全員が出場できるよう、アテネオリンピックに向けて万全の準備をしていますが、現在の結果に甘んじることなく、さらなる努力をしたいと思います。ただオリンピックに出場すること、世界の檜舞台で戦うことは並大抵のことではなく、やはりそれなりに整った環境と、膨大な費用、多くの人たちの理解が必要です。残念ながら日本ではまだまだアマチュアのスポーツ振興に対する理解度が高くありません。リストラと言えば、一番先にスポーツ支援が打ち切られるのが現状です。しかしながら、日産の社長になったカルロス・ゴーン氏は、会社の再建過程でも、スポーツへの支援を止めませんでした。欧米諸国の感覚ではそれが普通なのでしょう。
 スポーツにはルールがあり、それに基づいて成果を上げれば、世界中で認められます。スポーツという文化が社会に果たす役割の大きさを、多くの人々が認識し、国や企業が支援して行く体制を創り上げて行かなければならないと考えています。
 
 
現在は、全国に160店、会員数39万2千人ということですが、今後の展望をお聞かせ下さい。
 今後さらに少子化、高齢化社会が進みますが、我々は数年前から、「フィットネス(身体の健康づくり)からウェルネス(心身ともに心地よく快適になる)へ」を提唱してきました。会員の平均年齢はここ数年確実に上昇傾向にあります。単に運動する場ではなく、ゆとり、リラクセーションやコミュニケーションの場としてクラブのあり方が求められる時代になってきていると思います。これまでのフィットネス施設に加えた、温浴施設、カルチャールーム、多目的スタジオなど充実した「ウェルネスクラブ」の展開は、現在全国11店舗、さらに増強させていくつもりです。またルネッサンスとの業務提携を行い、出張先あるいは旅先などでも施設を利用できるよう、利便性もアップさせています。残念ながら、セントラルの施設は中央区内にないのですが、佃のリバーシティには提携施設がありますので、中央区のみなさんにもご利用いただけると思います。
 「いくつになっても、健康で元気でありたい」というのは全ての人の望みです。例えば、実年齢が60歳の場合、スポーツ年齢(体力、筋力などを総合的に測定)は、40歳から80歳という著しい個体差が生じます。スポーツ年齢という点に限っても、スポーツを続けることは大変体に良い影響を与えますので、身体を動かし、鍛え、心身ともに豊かな生活を過ごして欲しいと思います。
 
中央区に対する印象、また気にいっておられる所がありましたらお聞かせ下さい。
 私は葛飾柴又の生まれで、子供の頃から江戸川で泳いでいましたので、川や水に対する思い入れは人一倍深いですね。隅田川のゆったりとした流れを見ているといつまでも飽きないし、いつか一度は泳いで見たいと思っています。また子供の頃遠足で訪れた浜離宮はなつかしくもある場所です。あの辺りは今でもあまり変わっていないように思いますね。多忙にまぎれゆっくり歩き回る時間があまりないのですが、桜や紅葉の季節に散策してみたいところです。
 
これまでの人生で、とくに印象に残る出来事や、人との出会いがございましたら、お聞かせ下さい。
 多くの人たちと出会い、それぞれに多くのことを学ばせていただきました。なかでも、1952年から1964年にかけ、4度のオリンピックで活躍した体操の小野喬さんには、たいへん感銘を受けています。公私ともにお世話になり、いろいろお話することも多いのですが、まさに「努力の人」です。4回のオリンピック出場と3回の世界選手権出場で、獲得したメダルの数は総計21個(金7、銀9、銅5個)。結果が全ての厳しい世界で、長く超一流の選手であり続けた裏には、大変な努力があったと思います。小野さんの「努力」に少しでも近づけるよう、頑張らねばといつも思っています。
 
最後に、次代を担う若者たちへのメッセージをひとことお願いいたします。
 スポーツに限らず、すべてのことに通じると思いますが、目指したことは諦めずにやり抜くことです。若いうちの苦労は買ってでもしなさいと言われますが、努力した結果は必ず出てきます。かつてマラソンの瀬古選手を育てた中村監督が、「能力は有限だが、努力は無限だ」とおっしゃっていますが、まさにその通りだと思います。無限の可能性をいかに引き出すかは、自らの努力にかかっています。努力を惜しまず、道を切り開いてください。
 

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