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金春 安明 座右の銘 芸術家であるより職人でありたい

 
浄土真宗本願寺派・本願寺築地別院 輪番 中西 智海氏
略歴
昭和27年5月 79世宗家金春信高の長男として奈良市で生まれる
昭和31年 一家をあげて東京へ転居
昭和34年3月 興福寺薪能で初舞台・「海人」の子方
昭和36年10月 「猩々」で初シテ
昭和43年 「鷺」を披(ひら)く
昭和46年   宗家金春信高氏らとともに、65日間のアメリカ・カナダ公演
昭和49年   「道成寺」を披く
昭和51年3月   学習院大学国文科卒業
昭和52年   香港で開催された「アジア芸術祭」に参加
昭和61年   社団法人金春円満井会設立、初代理事長に就任、現在に至る
平成2年   金春円満井会モントリオール公演
平成3年   重要無形文化財能楽(総合指定)を受ける

これまでに、「翁」「獅子」「乱」「道成寺」「鷺」「卒都婆小町」を披く
その他役職 (社)日本能楽会常務理事、(社)能楽協会会員
※ 披(ひら)く(一定の年齢になり、その曲をはじめて演じること)
趣味 鉄道関連(時刻表をみること)、毛沢東の演説録音の研究

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 今回の「今月の顔」は、金春流能楽師の金春安明さんです。ユネスコの世界無形文化遺産に認定され、世界に誇る日本文化のひとつである古典芸能「能楽」のシテ方として、気負わず、600年という歴史の中で、自然な流れのままに、師から教わり実践してきたことを正しく踏襲していきたいとおっしゃる金春さんに、中央区銀座、金春通りと金春家との関わり、20年余続いている「能楽金春祭り(路上能)」のお話、江戸の町人文化の中にも浸透していた能楽の有様など、興味深いお話を語っていただきました。
金春流能楽の起こりからこれまでの経緯を、簡単にお話し下さい。
  能楽の前身としては、奈良時代に大陸から伝わった民間芸能で「散楽」というものがあり、器楽や歌謡、舞踊などバラエティーに富んだものだったようです。平安から鎌倉期になると、こうした芸能を演ずる人たちが集団(座)を形成し、寺社の保護下で祭礼などに奉仕したり、各地を巡演したりするようになります。やがて「散楽」が日本風に「猿楽」と呼ばれ、様々な世相をとらえ風刺する笑いの台詞劇として、後の「狂言」に発展していきます。同時に、物語的要素に歌舞音曲を加えた楽劇「田楽」も作りあげられ、二つの演目をとりまぜて上演される「能楽」の形式が出来上がっていきます。室町・南北朝時代には、奈良の興福寺に奉仕する猿楽の大和四座(のちの観世、金春、宝生、金剛)が活躍し、14世紀後半、観阿弥、世阿弥親子によって「能」の芸術性が確立されたと言われています。
 金春家の遠祖は、聖徳太子に仕えた秦河勝で、太子自ら打った翁の面を授かり、翁三番叟を古くから演じていたとも伝えられています。これは、あくまでも伝説的な話で、記録として確認できているのは、足利義満の時代以降です。猿楽大和四座のひとつとして、能の謡や舞を担当するシテ方として活躍、能楽が大成された室町時代に、鬼能に長じた毘沙王権守の子供が、金春権守(54世)という芸名を使ったことから金春流が生まれました。またその孫の金春禅竹は、世阿弥の娘婿にあたり「拾玉得花」「花鏡」といった秘伝を相伝され、「定家」「芭蕉」等の作品を遺しています。
 戦国時代から、豊臣、徳川と武家社会への移行に従い、能の座も寺社の保護下から、武家の保護下に変わります。豊臣秀吉は、自らも好んで能を舞うほどの愛好家で、知行や配当米、扶持を与えて能を保護します。江戸期に入り徳川時代も同様、大和四座に喜多流を新たに加え、四座一流が幕府の「式楽(儀式用の芸能)」に定められ、様々な活動を展開していきます。この頃から能の中心は江戸に移りますが、四座一流の中でも金春流は、奈良春日大社、興福寺との繋がりが深く、旧暦11月の春日若宮のおん祭、2月(現在は5月)の薪能に出仕、奈良に土地、家やお墓を賜り、たえず奈良の空気を嗅いでいたことから、古風なものを色濃く残してきた流派と言われています。
 能は格式高く、武士階級のものというイメージが強いですが、江戸期の資料を見ると、勧進(チャリティー)能や町入り(江戸城内に町人が入ることを許された特別の日)能などが盛んに行われ、寺子屋では読み書きそろばんの他に謡いの指導もされており、広く一般庶民の中に教養として浸透し、町人の文化としても密接な関わりを持ち続けて来ました。それが武家社会の崩壊した明治維新後、廃仏毀釈で寺院での演能が禁止されるなどの不自由な一時期はありましたが、日本人の心に根付き、廃れずに脈々と古典芸能として生き続けてきた要因ではないかと思っています。
 
銀座には「金春通り」があり、「金春芸者」「金春湯」といった名称が親しまれていたと伺っていますが、中央区との関わりをお聞かせ下さい。
 寛永4年(1627)に、江戸幕府より屋敷の土地を拝領した場所が、現在の中央区、銀座のあたりだったそうです。奈良に本家があり、幕末には、尾張徳川家の江戸屋敷に近い市ヶ谷仲之町に住んでおりましたので、実際に住まいとして使用したのはわずかな期間で、銀座の土地は町人に貸していたようです。いわゆる不在地主で、土地経営をしていた書類などが残っていますし、古い江戸市街の地図には、金春屋敷の場所は町人色に塗られています。このような形で江戸期から明治維新にかけて、中央区・銀座と関わりがあり、土地の呼び名として、現在も「金春」という名称が親しまれているのは、嬉しいことですね。
 中央区は地域柄でしょうか、古典芸能・文化の保護育成にとても力を注がれ、昭和53年に中央区教育委員会で「金春屋敷跡」が重要旧跡に指定されました。その翌年に、地元商店会の方たちの熱心な働きかけで、「銀座金春通り会」が発足し、「金春通り」を復活し、初代会長(現名誉会長)の勝又康雄氏(現会長 千谷俊夫氏)と、金春流79世宗家である父・金春信高との親交が生まれました。そのような中で、金春通り会のイベントとして路上能の企画がもちあがり、昭和60(1985)年に第1回の「能楽金春祭り」が開かれました。私も初めから関わり20年余経ちましたが、地域の方々とのおつき合いも深くなり、また、この地に対する親しみも増してきました。
築地本願寺
 
能楽金春祭りは、昨年夏(2003年8月)で19回目を迎え、年々盛況と伺っていますが、路上能の見どころなどについてお聞かせ下さい。
中西 智海氏  金春流は「春日若宮のおん祭り」を担当してきておりますので、路上で能をすること自体はさして難しいことではありません。玉砂利を蹴散らし、馬糞を避けなければならないことに比べ、銀座の道路は舗装されていて、距離もさほど長くないのでから。演目は春日おん祭りと同じ「弓矢立合(ゆみやたちあい)」が入りますが、我々の間では、「弓矢立合は大変!」と語り種になっていました。というのは、春日では12月の寒中、銀座では8月の炎天下という様に、両極端の時節だったからです。(現在は、夕方に開催されています。)古くから奈良でしか見られない室町時代の古儀にのっとった演目を、都心の真中、銀座でお見せ出来るので、大変ご好評をいただいております。能を全く知らなかった方々でさえ、毎年楽しみにしていただける様になり嬉しい限りです。一番の問題は天候で、雨により中止せざるを得なかったこともありました。ここ数年は、商店街の駐車場をお借りし、そこに金春稲荷のお旅所をしつらえ、雨天時には駐車場の屋根の下で出来るよう対策を備えていますが、幸い近年は好天に恵まれています。年々観客の数が増えていますので、1箇所に集中せず、また、後ろの方も見ることが出来るよう、モニタースクリーンを設置するなど、環境の整備にも配慮しています。演能は1日だけですが、祭り期間中(1週間あまり)は、少しでも多くの方たちに能に関する知識や興味をもっていただけたらと思い、実際の装束の着付けなど様々な企画を組んでいます。銀座の「能楽金春祭り」(金春円満井会・銀座金春通り会共催、例年8月開催)にぜひ一度、お出かけ下さい。
 
「金春円満井会(えんまいかい)」を昭和61(1986)年に設立され、理事長を務めていらっしゃいますが、会の目標や活動についてお聞かせ下さい。
 「金春円満井会」は、金春流能楽の伝統を正しく保存し、能の普及・振興を図るなど、文化貢献を目的として、昭和61(1986)年、社団法人として発足しました。名称は大和猿楽四座のひとつ、円満井座(のちの金春流)を由来にしました。ベテランの能楽師からアマチュアまで、会員は現在全国で約500名ほどになります。活動内容は、演能活動のほか、謡本の刊行、能楽に関する講演や、一般の方の指導、後継者の育成など多岐に渡っています。日本古来の伝統芸能の素晴らしさを後世に伝承すべく、今後も活動していきたいと思います。
 幸いにも昨今は、お稽古をなさりたいという若い方も増えてきています。黒紋付に袴、裃が正式ですが、普段の稽古では、どのような装いでも結構ですので、一度いらっしゃって下さい。姿勢を正し、声を出し、気持ちをピンと張りつめることは、精神の鍛錬にもつながります。
 
代々受け継がれている家訓、信条などがございましたら、お聞かせ下さい。
 芸といいますか、舞台の上で受け継がれてきた金春流の技術としての伝統はありますが、特に言葉で伝えられている家訓はありません。父の指導により幼い頃から、見て、実践して、伝承していくものだと思ってまいりました。6歳から子方(子役)として舞台に立ち、声変わりしてから大人の役につきました。習って、教えて、舞台を務めることは、まじめに堅実に習得していく地味な仕事だと思っています。背伸びせず、ドタバタせず、派手なパフォーマンスを狙わず、これからも精巧な機械のように、淡々と演じていきます。というのは、演じる私が余分なものをつけ加えることなく、作者の意図したことを観客に直接伝えることが大切だと思っているからです。
 狂言大蔵流の先々代山本東次郎師が「守って亡びよ!」という言葉を述べていらっしゃいますが、時として耳に心地良く響く言葉です。実際に亡びてしまっては困りますが、あえて自分の味付けはせず、家としての伝統を正しく守り、踏襲し、次の代に伝えていくことが、能楽師としての私の役割であると考えます。
石造りの動物
 
これまでの人生で、心に残る出会いや出来事などがございましたらお聞かせ下さい。
 様々な人たちと出会い、自分に役立つことをその度に吸収し、現在の私が形成されたのだと思っています。特別な出会いと言えるのか分かりませんが、生まれてきたことを親に感謝していますし、家内との出会いも人生の大きな出来事です。また、能の家に生まれ、自然に能楽師として仕事をしているということは、私には合っているのだと思います。
 
最後になりますが、次世代を担う若者たちにひと言メッセージをお願いします。
 能の歴史600年の中で大きく変革しているのは初めの200年間で、豊臣秀吉以後の400年間はほとんど変わっていない不変の芸術と言えます。もちろん、時の流れの中で、自然に変化してきたこともありますが、自然に「変わってきた」ということと、「意図的に変える」ということは、意味合いが異なります。古典として定着してきたものを、あえて変えるのではなく、自然の流れのままに守って行くことも大切ではないでしょうか。現代は表現の自由な時代、情報の多い時代であり、若い人たちには、それぞれの生き方があり、新しい試みをする自由があります。私たち古い世代が、若い人の自由を認めると同時に、古いやり方にこだわり、頑固にやる自由も認めていただきたいと思っております。
 

※記事の組織名や肩書は掲載当時のものです。  
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