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略歴  
昭和2年 8月18日東京都日本橋区生まれ
昭和22年 慶応義塾大学在学中に榮太楼食品工業(株)監査役に就任する。
昭和25年 慶応義塾大学経済学部を卒業
昭和46年 榮太楼食品工業(株)社長に就任する
昭和47年 (株)榮太樓總本鋪社長に就任
平成7年 同社、会長に就任
平成12年 同社、相談役に就任

東京青年会議所副理事長、東京和生菓子商工業協同組合理事長、全国和菓子協会会長、
全日本菓子協会副会長、東京商工会議所1号議員、2号議員、東京都観光土産品公正
取引協議会会長、全国観光土産品公正取引協議会会長、東京商工会議所名誉議員、
その他、地元日本橋関係各種団体役員を歴任している。
平成6年に藍綬褒章、平成11年には勲四等瑞宝章を受章
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お生まれはどちらですか?


 生まれたのはこの場所(榮太樓總本鋪日本橋本店)です。今の店で言いますと、喫茶部の2階になります。当時はこの地域も木造の二階屋が中心で、大正12年9月の関東大震災で日本橋界隈も焼けましたが、榮太樓は12月には再建しています。ですから私はこの家で生まれたのです。
 この日本橋界隈の老舗は、関東大震災で店と住居が分かれた方々が多いのです。しかし榮太樓は大震災後も店と工場、住居が一緒のまま再建しました。私が生まれた時には職住が一緒で、前が店で後ろが工場、横が住まいという形でした。東京大空襲の後は、この地域のお店の職住は完全に分かれたようです。
 
日本橋界隈の変遷をどのようにお感じになりますか?

 賑わいという点では、それぞれの時代で移り変わりはあります。しかし街並ということを考えますと、日本橋は変わっていないと思います。日本橋の橋の幅は変わりませんし、中央通りの幅も変わりません。この近所の老舗の数々は大きなビルになりましたが、あるべきところにある姿で残っています。中央通りから昭和通りにかけては、6〜7本の路地があり、魚河岸のあった時代のものが残っています。新宿、池袋などの繁華街は開発のために戦前の面影は残っていませんが、日本橋や銀座は基本に昔の街並が残っていると思います。
 
小学校時代の思い出はございますか?

 私は小学校から慶応に行きましたので、この近所で仲間たちと遊んだという記憶はあまりありません。ちょうど私が小学校に入った昭和9年に三越前から新橋まで銀座線が開通しました。本来なら市電に乗れば、日本橋から中央通りを通って田町まで行けたのですが、子供心に地下鉄に乗りたくてしかたありませんでした。そこでわざわざ地下鉄で新橋まで行き、当時の省線(現JR)に乗って通いました。学校では地下鉄で通学していることを、皆にうらやましがられたものです。当時の交通機関について言えば、日本橋川は水路としてまだまだ機能していました。かすかな記憶ですが、お菓子の材料となる小豆や粉は船で荷揚げしていたことを覚えています。潮干狩りに行く社員の慰安旅行もここから船に乗って浦安の方まで行ったものです。
 
日本橋や中央区とのお仕事を通しての関わりをお教えください

 榮太樓の戦後の再建は、昭和22年です。当時まだ学生でしたが、少しずつ店の手伝いをしていました。当初は杉並に工場があった為そこまで通ったこともありますが、本店のある日本橋でずっと働いてきたという思いはあります。
 私は道路元標(日本橋の中央に位置する日本の道の中心)に一番近いところに生まれた男だと思っています。祖父や父はもちろんのこと、母も高島屋さんの近くで生まれた日本橋出身です。故郷はここ以外には無いのですから、そういう意味では日本橋に対する思い入れは強いです。ですからいろいろと日本橋の地域活動には積極的にお手伝いしてきました。
 例えば、日本橋名橋保存会の副会長や、地元の警察の懇話会の会長等をお引き受けしています。また、中央区の中ではいろいろな協議会に参加しています。
 日本橋は、日本橋という橋と日本橋というゾーンと2つの考え方があります。かつて中央区は日本橋区と京橋区に分かれていました。建造物が行政の区域の名前になっているのは、日本の中でも京橋と日本橋くらいではないでしょうか。
 明治のはじめに行政区分が15区に分けられた時に、江戸北区と江戸南区にしようという話もあったと聞きますが、やはり日本橋区と京橋区に落ち着きました。日本橋と京橋の間に生まれたのが江戸っ子だという説もあったくらいに、この2つの橋は象徴的な存在だったのです。日本橋と京橋というゾーンが生まれ、それが昭和23年の合併で中央区となり、現在にいたるのです。
 晴海に最近できたトリトンスクエアも中央区の新しい姿だと思っていますし、発展を願っています。
 最近では国土交通省の関連で、高速道路を見直す協議会が生まれました。はじめに日本橋をケースとして取り上げていこうという動きで、私たちとすればたいへんありがたいことなのですが、中央区民、東京都民の合意を得なければなりません。高速道路の地下化や撤去にどのくらいのお金がかかるかは分かりませんが、将来を見据え、話し合いはきちんとしなければいけないと考えています。
 
中央区に住む意味、働く意味はいかがでしょうか?

 江戸っ子も東京人も減って来たと思います。同様に、ここ日本橋も居住人口が増えることは期待できません。住んでいなくても構わないので、ここで働いている人の中から、新しい日本橋っ子が育って欲しいと思います。そしてお祭りでお神輿を担ぐ等、長い歴史の中の様々な行事に参加してもらい、たくさんのよい思い出をつくってもらいたいと思います。また、ここで働く人には自信と誇りを持ってもらいたいと思います。事実ビジネスの上でも、日本橋には一朝一夕ではできない信用があります。
 
若い人たちにお言葉はございますか?

 今は情報化社会と言われています。ITは非常に便利ですし、否定はしません。時間と空間の障害を取り除いてくれますが、そのような社会になればなるほど人々はお互いの触れ合いを求め、文化等に一層の憧れを持つのではないでしょうか。私の仕事で言えば、お店に訪ねてくださるお客さんとの触れ合いとかが大切です。日本橋に来たら五感を通して人の心のゆとりを感じとれるような街にしていきたいと思います。迎合ということではなく、受け皿を考え、仕掛けも必要だと思います。新しい人たちの感性にも合う日本橋にしていかなければいけないと考えています。
 

※記事の組織名や肩書は掲載当時のものです。  
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