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略歴
昭和15年6月2日、東京都議会議員矢田英夫氏の二男として、東京都京橋区新富町に生まれる。区立京橋小学校、区立明正中学校、都立江北高校を経て、慶応義塾大学法学部法律学科に入学。慶大卒業後にアメリカに留学。

昭和42年にミズーリ州立大学ジャーナリズム学科を卒業する。同年共同通信社に入社し、海外部勤務。のち政治部に移り、政治記者として国政の中枢で取材活動に従事し、海外取材も多く経験する。

昭和62年3月、総理官邸記者クラブキャップを最後に共同通信社を退社。

昭和62年4月27日東京都中央区長に就任し、現在、4期目。

また、平成13年5月16日より特別区長会会長を務めている。
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 今回の「今月の顔」はわがまち中央区の区長、矢田美英さんです。区長は、区役所のお隣、新富町で生まれ、この界隈で少年時代を過ごされた根っからの中央っ子と言えます。報道畑から政界に転じて14年。大変にご多忙の中、お時間を作っていただき、中央区に関する質問ににこやかにお答えくださいました。
お生まれはどちらですか。また、そのころの思い出をお聞かせください。
 生まれたのは新富町です。戦争が激しくなった時に、一時千葉に疎開しましたが、それ以外はずっと新富町で暮らしています。子供の頃は、本当にそこいら辺が遊び場で、よく走り回りました。新富町もまだ自動車が少なく、牛や馬の荷車が走っているような時代で、路地でビー玉やメンコをしたものです。築地の魚河岸が近かったため、「あみや〜、あみや〜」とあみ屋さんが来たり、夏になると金魚屋さんや風鈴屋さんが売りに来たものです。また、小学生の時には友達と一緒に魚河岸まで15分くらい歩いて、金魚を買いに行ったりもしました。その様な下町情緒豊かな時代でした。
 
学生時代の印象はいかがですか。
 私の通っていた明正中学校は今の新川にありました。中学では剣道に熱中していました。当時は中央区に映画館が多く、子供の頃からチャンバラが好きだったこともあり、週末になるとよく時代劇を見に行ったものです。市川右太衛門の「旗本退屈男」のシリーズ、片岡千恵蔵の「森の石松」や「多羅尾伴内」の映画に夢中になりました。高校は江北高校でしたので有楽町まで歩いて行きそこから電車で綾瀬まで通いました。格闘技が好きで、当時は柔道をやっていました。
 小学校時代にはガリ版刷り新聞を作ったり、高校時代には新聞に携わったりなどもしました。慶応大学時代には新聞研究所で大学新聞を発行するなど、子供のころから報道には縁があったのかもしれません。
 そして、大学では被害者学を学びました。これは犯罪における被害者の瑕疵(かし)を研究し、犯罪の防止に役立てようとするものです。この頃にいろいろな方にお会いする機会に恵まれ、麻薬撲滅のレポートをゼミに発表しました。今回特別区長会の先頭に立って麻薬撲滅キャンペーンに力を入れていますが、その時に学んだことが役に立っています。
 
政治部記者時代はどのように過ごされたのでしょうか。
 共同通信時代には、政治記者として様々な取材をしてきました。いろいろな現場に立ち会いましたが、一番印象に残るのは、鈴木・レーガン会談という歴史的に重要な場面を取材しえたことです。この時、「日米同盟」が確立されました。それまでは日米友好とか対等なパートナーシップと言われていましたが、「同盟」を結んだのはこの時からです。歴史の節目に直面しえた感動がありました。
 
区長としてのお仕事についてお聞かせください
 常に脇を固めていかなければいけないと思います。それだけ責任のある仕事であり、大切なのは「政治倫理の確立と綱紀粛正(こうきしゅくせい)」です。このことは区民との信頼関係の原点ですから、当然、守っていかなければいけません。また、私にとってここは故郷ですから、思い入れは人一倍あります。中央区をより良いまちにしてゆくことが故郷の活性化につながっていくので、こんなにうれしいことはありません。
 
中央区に住む意味、働く意味についてお聞かせください。
 私が中央区長に就任した14年前はバブルの真っ最中で、都心は業務中心のオフィスに、住居は郊外にという考え方が中心でした。しかし私はその考え方とは逆に、職住接近でゆとりある生活を送るべきだと主張しました。「都心に人が住めるようにしよう」を合い言葉に、昭和63年を人口回復元年と位置づけ、定住人口回復対策本部を作り、本部長として取り組んだのです。当時は、年1000人、2000人と人が減っている時に、そうした施策を推進する必要があるのかと冷ややかな見方もありました。しかし、今はそれが実って、区立住宅も当時の46戸から942戸と20倍以上になり、民間の住宅も作りやすい制度が出来ました。
 平成10年には人口が前年に比べ297人増加しましたが、なんと45年ぶりの人口増加でした。その後、1319人、2619人、3257人と平成13年まで4年続けて着実に増えています。昨年の国勢調査でも人口はこの5年間に8623人の増加となり、その増加率13.49%は東京の63の自治体の中で一番、全国でも四番目の高率でした。
 又、中央区には新名所もいくつか生まれましたが、4月にオープンした晴海のトリトンスクエアは変化に富み、水辺という環境の良さや職住のバランスが取れていて非常に素晴らしいですね。そして、今年で14回目となる「東京湾大華火祭」や12回目となる浜町公園での「大江戸まつり」など数々のイベントも開催され、ますます故郷が活気に満ちていく気がします。
 
若い人たちにお言葉はございますか。
 若い頃の失敗は立て直しが充分に効きますし、その苦労は身につくものです。人間はあまり楽をしてしまうと、いろいろなことが身につきませんからね。そういう意味で「若い時の苦労は買ってでもしろ」ということです。若い時にはこれくらいの意気込みが必要だと思います。
 

※記事の組織名や肩書は掲載当時のものです。  
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