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略歴  
明治43
(1910)年
東京都日本橋区(現中央区)に料亭「濱田家」の五男として生まれる。
昭和3
(1928)年
慶応義塾商工部を卒業。
昭和22年 株式会社濱田家代表取締役となり、現在に至る。
昭和25年 東京大空襲により焼失した明治座の再建のために奔走し、再建を果 たす。株式会社明治座取締役となる。
昭和32年 株式会社明治座代表取締役専務となり、漏電のために焼失した明治座再建に尽力する。
昭和42年 株式会社明治座代表取締役社長となる。
昭和49年 日本演劇興行協会会長となる。
昭和52年 東京食品販売国民健康保険組合理事長となり、現在に至る。
昭和53年 社団法人日本食品衛生協会理事長となり、現在に至る。
昭和59年 勲二等瑞宝章を受章する。
昭和60年 日本演劇興行協会顧問となり、現在に至る。
平成5
(1993)年
株式会社明治座代表取締役会長となり、現在に至る。
平成11年 名誉都民に顕彰される。日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会会長となる。
平成12年 日本橋二十一世紀イベント実行委員会会長となる。
 
株式会社明治座代表取締役会長・三田政吉さんは、昨年12月12日にめでたく卒寿を迎えられた。古くから続く人形町の料亭濱田家の社長でもあり、日本橋生まれの日本橋育ち。財界人として、文化人として中央区に深く関わって来た三田さんに中央区についてうかがった。
 
会長の生い立ちから、当時の中央区の思い出を教えてください。

私が生まれたのは日本橋のすぐそば。更地になってしまった日本橋東急百貨店(当時の白木屋呉服店)と老舗の布団屋伴傅の間を東に向かって、東中通 りを越えた青物町ですが、関東大震災の後、昭和通りになって今はありません。当然ながら子供時代の遊び場は日本橋界隈。青物町と言う地名も、多分、江戸時代以来ずっと魚河岸が日本橋北詰めにあったので、それとの関連で青果 ものの店がたくさんあったので、そんな地名が残ったのでしょう。私の子供の頃は、現在のようなビル街ではありません。大きな建物といえば白木屋さんだけでした。

 戦災以前はその賑やかさはまだ残っていました。四日市という塩乾物専門の店が軒を並べて、骨董店もたくさんありました。今でも仲通 りには画商さんや骨董屋さんが多いのはその名残りでしょう。東仲通りは高島屋裏と昭和通 りの間の横町で、骨董通りと呼ばれていました。古美術や中国、ペルシャものを扱う店が20軒くらい並んでいて、楽しい通 りでした。

 その頃、父は日本橋人形町に料亭濱田家を創業する直前で、まだ、板前の職人です。日本橋の福井楼という料亭の料理長でした。私が生まれてから2年後に、父は料亭濱田家を創業します。そのような町中で子供の時代を過ごしたわけです。

 子供の時はデパートに行くのが楽しみでした。まだ、高島屋が京橋の方にあった頃ですから、三越や白木屋の思い出でしょうか。三越の玄関に入ると段が一段高くなっていて、うすべりが敷いてあり、呉服売り場は畳でした。下駄 は脱がされましたね。下駄を脱ぐとそれを麻縄でくくった札を渡されました。その時分にはエレベータもエスカレータもありましたね。三越の向側で、梅村のお汁粉、宝来ずしなどを食べさせてもらえるのが、嬉しかったですね。白木屋の横に木原店という横丁が合って、お汁粉やおもちゃなどの子供の好きなものを売っていまして、私の家のそばということもありまして、よく行きましたね。「赤あんどん」という屋号の店があって、入るとすぐ土間で、両側にテーブルが10卓くらいあって、飲みながら話ができ、人の出入りが多かったですね。つまり今の居酒屋です。

日本橋には関東大震災までは魚市場がありました。駿河銀行、三越前の木屋という刃物屋から江戸橋までの一角、2万坪くらいあったのでしょうか、錦絵にもあるようにたいへん繁盛しました。子供の時に連れていかれ、話もできない雑踏で両側に店がズラッと並んでいて、これが市場かと驚いたのを覚えています。魚を売る店だけじゃない。陶器、塗り物、練り製品、それに浅草の合羽橋と同じに料理に使う道具といろいろなお店が集まっていました。日本橋の大通 りでは木村屋というパン屋、岡村では絨毯や家具を売っていました。両替屋もありました。

 関東大震災の後に、何でもあった雑踏の子供の頃の思い出がある日本橋の魚市場も芝浦、築地へと移転していきました。当時東京で一番大きな100メートル道路である昭和通 りも、その時にできたのです。この時、危機管理の発想から大規模な都市計画がなされ、道路も6メートルから100メートルと広くなりました。それが大正時代の思い出として大きいですね。
 
春の火災予防週間がはじまりました。火事と喧嘩は江戸の華とも言われていますが、火事はその後の計画的な復興が肝心です。会長は明治座の火災を経験し、建て直しの中心として尽力なされました。その時のご苦労をお聞かせいただけませんか?

葭町、浜町界隈は江戸時代初期は葭や葦の生い茂った隅田川の中州で、官許の遊廓があった元吉原だと言われています。この地が江戸時代以来の繁華街であったことは、どうやら確かなことのようです。

 明治26(1893)年に、初代市川左団次によって久松橋近くの久松町に建てられた明治座は、大正12(1923)年の関東大震災の後にこの地に移り、葭町、浜町界隈の繁華街の中核をなす存在だったのです。ところが、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で焼失した明治座は、その惨たらしい残骸をむき出しのまま放置されていました。地元有志の間で明治座復興の気運が盛り上がり、復興期成会が組織されたのは昭和22年3月のことでした。当時明治座の経営主体は松竹でしたので、早急な復興をお願いにあがりましたが、松竹は歌舞伎座の再建に集中していましたから、明治座まではとても手が回らないと言うのが実情でした。そこで地元の有志で出資を募って、どうにか5000万円ほどを集め、残りは銀行から融資を受け、明治座設立発起人準備委員会を開いたのは、復興期成会結成から3年近くも経った昭和24年11月でした。発起人総代に三輪善兵衛(ミツワ石鹸社長)氏、副総代に新田新作(新田建設社長)氏、準備委員に松坂屋の伊藤鈴三郎、松竹の大谷竹二郎などの諸氏にも参加していただき、私も末席につらなることになります。建設は新田建設が請け負い、1年後の昭和25年11月30日に開場に漕ぎ着けました。250名ほどになった葭町の芸者衆が開場式を彩 ります。芸者衆が増えたことは、料理屋やお茶屋が戻って来たことを意味します。その頃になると朝鮮戦争の特需景気も加わって、人形町の商店街も活気を取り戻し始めていました。

 再建復興の開場から7年目。昭和32年4月2日午前11時55分、漏電により2階照明室より出火、明治座は瞬く間に焼失してしまいます。3月公演は終わっていましたが、4月公演は5日初日です。その前の5日間に毎年恒例の葭町芸者衆の春の踊りが行なわれます。その千秋楽の日の出火でした。

 不幸は重なるもので、前年の6月25日に明治座の社長を引き受けてくださっていた新田新作氏が亡くなりました。新田松江夫人から社長就任の要請があったのですが、固辞しました。川口松太郎先生、大映の永田雅一社長を交えて、急きょ開かれた役員会議の結果 、新田未亡人を社長に据えて松竹と新田建設が協力する現状維持態勢で、新田社長の急折を乗り切ることになった矢先の火事だったのです。翌日早朝7時からの緊急役員会議は、川口松太郎先生の座長で進められました。川口先生は「三田君は家も近いし、年齢も一番若いのだから、今度はぜひ引き受けて欲しい」と言われたのですが、「私は劇場経営は全くの素人でございますから、とてもそのような自信はありません」と申し上げるしかありませんでした。しかし川口先生は「緊急事態だから、君のやり易いように態勢を固めればよいではないか。何も言わずに引き受けてくれ」と、たってのご要望です。お断りもならず、新田夫人の社長はそのままに、私は再建委員長の専務ということでお引き受けすることになりました。
 この再建には6億円をかけたことになりました。それだけの資金をよく集められたものだと今でこそ思いますが、まだ46歳の若さにものを言わせたのかも知れません。昭和33年2月に竣工。3月3日の3並びの佳日に開場式を迎えることができました。その式で竹中工務店の竹中藤右衛門社長が挨拶され、「この劇場は自分の娘のようにきれいにして、今日はお嫁にやるつもりであなたにお渡ししました」とおっしゃられたとき、私は柄にもなく瞼が熱くなり、感無量 に胸迫る思いだったことを昨日のように思い出します。

 
会長はいろいろなお仕事をなされて来ましたが、お仕事をする上での信条をどう考えておられますか?
 一番大事なことは、商人は誠実で無いと駄目だということです。それにお客さんに親切で無いと続きません。そして社員の生活にまで目を通 して、社員を大切にしないといけません。それでなくては良い人は集まりませんし、店に長くはいてくれません。働いている人への思いやりが大切だと父に言われ、私も守って来ました。昔の人は、自分と一緒に働いている人への行き届いた心配り、そういうものがあったのではないでしょうか。それが大切だと思います。
 
中央区の次代の人々に伝えたいことは、何かございますでしょうか?

日本橋について言いますと、関東大震災と東京大空襲で江戸時代からの老舗がいたみましたし、止めた人や他所に行った人もいます。昔を忍ぶ家柄の人が少なくなりました。これを元通 りにすることはできないでしょうが、もう少し活力のある町にするには、この町の有識者が集まってやるしかありませんね。町が飽きずにしんぼう強くするということが大事なんですね。町の人の協力が無ければできないことなのだから。協力と長続きが肝心です。
 IT産業に国庫金を投ずるんだと言っていますが、これはこれで非常に結構だと思います。ITはものの考え方よりも数字に重点を置いている分野です。箱崎はIBMやソフトバンクなどが集まり、ITの町になってしまいましたね。しかし、ITはいいのですが、それでもそれだけに片寄ってはいけませんね。商業や工業の生産や流通 にも力を入れて光が当たるようにしないといけません。ものを作ると言うことが大事なのですから。ITもさることながら、生産、流通 ということにも力を入れて、21世紀へ一人ひとりが知恵を出し合い、何か新しいものを作っていきたいし、作っていって欲しいです。

 町を良くするためには、大勢の人が協力しあわないとできません。飽きずに辛抱して町の人と協力していくこと。これは21世紀でも同じです。

2001年3月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
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