1921(大正10)年、横浜中区吉浜町に生まれる。2歳半のとき、関東大震災に遭遇、家族5人で横浜公園に避難し、破裂した水道管の水を飲み生き延びる。1936(昭和11)年、貿易商を志し、横浜弁天通りにあった「都シルクストア」に住み込みで働く。夜学で英会話、英文タイプライターなど習得。1938(昭和13)年、銀座支店を経て、17歳で赤坂山王ホテル内の店舗主任を任される。その後学業に戻り、1943(昭和18)年法政大学卒業。株式会社飯田高島屋(現丸紅)に入社。商社マンとして戦争の混乱期を過ごす。戦後独立し、1946(昭和21)年、銀座7丁目にパンニを開業。 次のページ>>

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「昔恋しい銀座の柳・・・」(東京行進曲)が一世を風靡したのは、昭和初期のこと。銀座の柳は時の移り変わりの中で、天災、あるいは人災により何度も姿を消しては、再び復活してきました。それは、銀座を愛する人びとの心に「銀座のシンボル」としての柳が、生き続けてきたからなのでしょう。この歌をこども心に聞きながら横浜で育った勝又さんは、やがて長じて銀座の住人となり、柳二世の育成・保存の活動に20年の歳月、情熱をかたむけてこられました。また、街の歴史をひもとくことよって、現在の町のあり方を考えることが、先達たちの築きあげてきた文化遺産を次の世代に伝えることとともに、自らの使命とおっしゃる勝又さんに、郷土史の研究と、能楽金春祭り、銀座湧水マップの作成など、多岐にわたる地域活動のお話を伺いました。

 私が銀座に始めて足を踏みいれたのは、昭和12年、16歳頃のことです。横浜の弁天通りにあった「都シルクストア」に住み込みで働いており、その支店が銀座のみゆき通りにありました。姉兄たちの口ずさむ「東京行進曲」や「東京音頭」を聞いて育った少年には憧れの街でしたが、支店勤務になり実際に来てみると、「これが銀座か」程度のものでした。海外貿易の盛んな横浜で暮らして居りましたので、さして目新しい感じはなかったのです。ただ、柳の並木と夜店の賑わいは印象的でしたね。それから戦争の混乱期を経て、「都シルクストア」社長の弟の勧めもあり、昭和21年に独立、7丁目にパンニ(pani)という外国人向けの土産物(主に繊維品)を扱う店を開業しました。物の不足している時代でしたが、都シルクストアに勤めていた関係と、当時は外貨獲得奨励という国の政策もあり、商品だけは豊富に調達でき、順調な滑り出しでした。

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                                                          2003年10月掲載記事
                                                ※内容は、掲載当時のものとなります
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