昭和43年、道路整備のために、銀座通りの柳は全て撤去されました。日野の建設省街路樹苗園に一部移植されてしまいます。その後年月が流れ、昭和51年「銀座の柳の由来」碑が銀座8丁目に建てられ、さらに53年銀座通り連合会の行った会員アンケートでは、柳復活を望む声が6割を上回り、関心を集めました。私が銀座の柳の活動に取り組み始めたのもこの頃からです。昭和59年、朝日新聞掲載記事で「日野苗園に残る銀座の柳がわずか3本」であることを知り、「銀座の柳の死水は、なんとしても銀座で取りたい」と御門通り商店会会長の椎葉一二さんと協力し、建設省に請願、枝150本を剪定して、椎葉氏の山荘に分植しました。翌年150本中86本が根付き、二世柳を銀座8丁目、御門通りの角に3本移植しました。時に昭和60年8月でした。
 昭和62年には中央区の木として柳が制定され、以後、さらに分植育成に心がけ、中央区内の随所に、また全国各地(現在61箇所)に植樹の輪は広がりました。多くの人々に愛され、育成に携わって下さる方々も増え、今では三世もすくすくと育っています。銀座柳の保存活動を始めておよそ20年余、一緒に頑張ってきた椎葉さんも昨年亡くなられ、記録として形に残したいと思い、2003年12月「銀座の柳物語」(小学館スクエア刊、定価2000円)を出版します。興味がおありの方は、ぜひご一読ください。


 昭和48年に、現在のビルが完成しましたが、貿易商に憧れ住み込みで働き、苦学生、商社マンを経験。さらに、独立、自社ビルの完成に至るまで、その人生を振り返った時にいろいろと思うところがありました。そのような折、腎臓結石を患い入院生活を余儀なくされ、その間、知人が京橋図書館で銀座の歴史に関する本を借りて来てくれました。江戸以来の銀座の郷土史にたいへん興味を惹かれ、銀座の歴史について勉強するきっかけとなりました。自分たちの住む地域がどんな歴史の上に形成されてきたのか、それを知ることにより、現在の街のあり方を考え、先達たちの築きあげてきた文化遺産をさらに次の世代に伝えることこそ必要なのではないか、と非常に強く感じました。

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                                                          2003年10月掲載記事
                                                ※内容は、掲載当時のものとなります