昭和4 (1929)年、日本橋人形町に生まれる。家業は明治の終わり頃から続く理髪店。旧制中学校卒業後、戦死した兄に代わり、理髪店を継ぐために修行に出る。昭和20年3月の東京大空襲に罹災、宮城方面に避難し生きのびる。焼け野原と化した人形町界隈の記憶は、今も鮮明に脳裏に焼きついている。昭和27年、人形町に戻り店を再開。土地柄、床屋談義に花を咲かす父や町内のお年寄りの話から、江戸、明治、大正、昭和の移り変わりに興味をもち、
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 日本橋人形町は、かつて江戸の時代、芝居小屋や人形操りの小屋が立ち並び、人形つくりの職人や人形を操る人たちが多く住み、泰平の江戸期260年に渡り、庶民に楽しみを提供した町でした。やがて明治に移り、水天宮の門前町、花街としても賑わいを見せ、昭和の中頃までは、料亭の黒塀、寄席や映画館、飲食店が混在する、活気溢れる町でもありました。昭和の終わりから平成にかけ、堀が埋められ、都電が消え、建物は平屋からビルへと建て替えられるなど、町の姿は様々に変化してきました。しかしながら、町の様相が変わった今でも、古くから住んでいる人の、町を愛する心は変わらないのでしょう。その移り変わりをつぶさに見てこられた有田さんは、この町の歴史や文化を言葉で語り、また写真で記録し、人形町の変遷を後世に伝えたいと地道な活動を続けていらっしゃいます。新しくこの町に移ってきた人、若者や子供たちに、地域の持つ歴史や文化に気軽に触れて欲しいとおっしゃる有田さんの、親しみやすい“床屋談義”をたっぷりと伺わせて頂きました。

 芳町花柳界、芸者屋町の中心部にあたる、人形町大通りから浜町に通じる甘酒横丁の床屋の次男として現在の地で生まれました。店は大正元(1912)年に父が開業しました。店を継いだ年の離れた兄は戦死し、空襲で店も焼け、戦後の混乱期に意気消沈している父母の気持ちを思い、私が継ぐ決心をしたのです。旧制中学4年の時でした。昭和20年3月の東京大空襲の時は、浜町方面から焼け出された人たちが押し寄せて、父母とともに避難しました。宮城まで逃げたものの、入れずに仕方なく近くの明治生命ビルで一晩を過ごし、翌朝に戻ると、浜町河岸の明治座からこちらはすっかり焼け野原で、私は、茫然自失の状態でしたね。たくさんの人々が亡くなり、焼け出されるというひどい有様でした。この戦災で古くから住んでいた多くの人たちが、流出してしまいました。店を再開したのは、昭和27年のことです。以来半世紀に渡り、変わらずここで床屋を営んでいます。

                                                          2003年12月掲載記事
                                                ※内容は、掲載当時のものとなります
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