■まえがき
いつも、気になっている人がいた。
私の通うジムで、ひと際目立つ美人だ。
足裏や太もも、ふくらはぎなど一カ所づつ、強烈な水圧を流すジャグジーで、じっとしている。
他の人とおしゃべりもせず、一カ所を五分程度で済ませ静かに次の位置に移動する。三十分程度でジャグジーを終えると、四、五歩の位置にある、隣のプールに入り、やおら背泳ぎを始める。
足を勢いよく蹴飛ばし腕をゆっくり回す。泳ぎ方なんか全然気にせず、手を後ろに伸ばすとき、まるで極楽、極楽と、つぶやいているように、気持ち良さそうなのだ。
私は、何をしている人か尋ねたかった。
しかし、美人特有の、人を寄せ付けない、つんとした風情があって、近寄りがたかった。
あるとき、勇気を奮って「よくお会いしますね」と声をかけると、美しい声だが、想像とは、はるかに違って、ポンポンと言葉が飛び出す。
この、紫派藤間流直門師範・藤間小紫鶴さんは、東京築地の生まれで江戸っ子。昭和十九年生まれの七十一歳。小さい時から日本舞踊の世界に入り、やがて、踊りながら台詞も加わり、沢山の舞台を踏むことになる。舞台に限らずTV出演もこなしてきた。
今も現役で、三越カルチャーサロンはじめ、日本舞踊の講師を務めながら、いろいろな場面で踊っている。加えて、十一歳の孫の面倒も引き受け、とにかく毎日が忙しい。
ジムのジャグジーで、今日、使った至る所の筋肉をほぐし、近くの静かなレストランで、ひと息。お酒は強くないが、ビールをチビチビ飲みながら、子供の頃の築地、そして今日に至るまでの芸能生活を聞いた。
■築地で生れ育つ
あたしが、生まれたところは、築地の何処かって。
築地三丁目よ。晴海通りの京橋郵便局を背にしたら、ちょうど右前。ほら、きむら屋漆器店さんの所よ。その左隣が、以前は岩間陶器店さんだったけど、今は玉寿司さんになっている。
この辺は、想像つかないけど、戦前は本当に静かな街だったそうよ。
芸能の世界で、有名なプロデューサーの岸井良衛さんが、書いた「大正の築地っ子」っていう本を持ってきたけど、この中に、当時のうちの写真と、おじいちゃんのことが書いてあるの。
本の写真はね、
「築地三丁目のぼくの家の二階の窓から写した」とあるから、きっと、岸井さんはうちの前、真正面というより、少し左前に住んでいたと思うの。
ほら、この写真見て。松岡自動車って看板がハッキリ見えてるでしょう。外車が前に二台止まってて。ここがあたしの生れたうちよ。
あたしの本名は、そう松岡。松岡喬子っていうの。名付け親は波除神社の宮司様で、後に、この宮司様には、お習字も習うことになったのね。
この写真を見ると、晴海通りは戦前、電車道だけは、石が敷いてあるけど、その他は土の道だったのね。水溜りも写っているもの。
自動車屋の時は勿論、あたしは生まれていなかったけどさ、ここが、天ぷら屋さんに、なってから生まれたのよ。
岸井さんはおじいちゃんの事をこんな風に書いているのね。
「松岡は元来が人力車を扱っていたが、時代の先端を行って、自動車部をつくったのであろう。
松岡のご主人は、町内のことの面倒見がいい人で、震災後も町内の復興に貢献していた。この写真にある車は全部が外車で、当時はまだ国産車は無かった。この自動車屋の隣の小間物屋も松岡が経営していた」って。
つづく…
(次回 『お祖父ちゃんの愛称は「チャーチル」』 は3月15日にアップします。お楽しみに)