このコラムは書籍『私の芸能生活六十五年』を、数回に分けて掲載いたします。
語り: 藤間 小紫鶴  聞き書き: 笠原 陽子

 

■楽しかった本願寺さんの盆踊り

 

 

とにかく、あたし達(弟二人)三人は、放ったらかしにされて、親の愛情に飢えていたのよ。
だから、あたしは、よその家の子に比べると、無口で愛嬌の無い、可愛げの無い子だったの。
生まれ持った性格もあるけどさ、ものごころつく頃から、店で酔っ払った姿など、男の人の嫌やらしい部分も見ていたからね。
看板娘なんて言われたって少しも嬉しくなかった。フンって言う感じだったもの。
こんな、子供の時の感性を、大人になるまで引きずって来たから、男に持てようとか、愛想を振りまこうとかさ、媚びるなんてこと全然無かった。
今もそうだけどさ。弟の方がニッコリしていて看板息子って感じだった。
なにしろ、友達もあきれるくらい、父母は子供に無関心というか。だって、あたしはさ、かなり大きくなるまで、門限なんていう言葉なんか、知らなかったんだから。
「はい、行ってらっしゃい」って、さばさばした感じで送り出して、「あら、帰っていたのね」って。心配する様子なんか全然無かったもの。
ともかく、子供はね、商売の邪魔だったからさ、お稽古事をいっぱいさせられたわ。お習字、そろばん、長唄、お三味線など何でもやっていたね。お稽古事をやっていれば親は、とにかく安心だったのよ。
今の子だったら、いっぱいお稽古事をしているケースはあるけど、当時はそんなにやっている子はいなかったわよ。だからさ、近所の子供たちと、楽しい遊びなんてあんまりしてなかったのね。

 「たか子ちゃん遊びましょ」って、お友達は良く来たのよ。でも、あたしはお稽古で、いつもうちにいないでしょ。だから、お友達に、母が好きなものをご馳走していたらしいのね。レストランやってたからさ。
 たまあに、友達と遊ぶときは、やっぱり本願寺さんの境内が多かったわね。
 本願寺さんと言えば、思い出すのが、本願寺さんの境内で毎年、行われた盆踊り。これは楽しかったわよ。
 この盆踊りは、変わっていてね。誰が一番上手に踊れたかって、一流の先生が審査員になって審査するのよ。
 子供たちは、松竹衣裳などから提供された、いろいろな衣裳を着てね、まるで仮装行列みたいでさ、それはそれは華やかだったの。
 景品も凄いの。あたしも特賞で、洗濯機を貰ったことがあったのよ。まだ、洗濯機なんて、本当に珍しかった時代にね。
 楽しかった、と言えばそんなことくらいかな。
 あ、そうそう、踊りでは、波除神社で巫女の踊りも、やったのを覚えているわね。
 考えてみれば、食糧難のハングリーな時代に食堂をやっていたのだから、食で困ったことはないし、経済的にも恵まれていたから、一層、我が儘になったかもね。
 学校の給食なんかさ、不味くて食べられなかったものね。食べろって、きつく言われても食べないし。学校でも有名だったわ。
【写真…現在の築地本願寺の盆踊りの様子】

 

つづく…
(次回 『日舞は六歳の六月六日から』 は5月15日にアップします。お楽しみに)

 

  
 
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