このコラムは書籍『私の芸能生活六十五年』を、数回に分けて掲載いたします。
語り: 藤間 小紫鶴  聞き書き: 笠原 陽子

 

■三越劇場のこけら落としに抜擢される

 

 

 三越劇場の、こけら落としで、雪乃丞変化の「浪路」をやらせて頂いたけど、これは大抜擢だったの。 新人がいいということでね。美空ひばり公演を見たプロデューサーにスカウトされたのね。

  演出が観世栄夫先生で、周りは大ものばかりよ。何しろあたしにとっては、生まれて初めて、そんな大役が来ちゃったのよ。

 本読みでね、あまりにも、あたしが、下手くそなもんだから、観世先生もあきれて、「もしかしたら代わってもらうかもしれないよ」って言うのよ。

 ああ、あたしでは、やっぱり駄目なんだと、沈み込んでいる姿を見て、プロデューサーが責任も感じてか、台詞の特訓をしてくれたのよ。うちに来て、腹式の発声とかいろいろ教えてくれたの。

 台詞覚えは、元々早かったから、立ち稽古の時は、台本も持たずに、かなりいい線行ってね。周りもびっくりしていたわ。

 観世先生も、「今日は一緒に帰るか」とか、冗談なんか言ってくれたりして。あの時は、ホッとしたわ。

 あたしってさ、結構、飲み込み早いから、教えて頂ければ、なんとかなったのよ。人の台詞まで、覚えちゃうんだから。

  穴があいた時なんか、すぐに代役も出来ちゃったりしたの。だから、あたしの出番が無くても稽古に行くのよ。みんなの代稽古もするの。誰かしら休むのね。主役の人も、用事や体調なんかで、稽古に来れない時もあるしね。

 そんな時は、衣裳を気にするあたしでも、何も考えずに娘も、女中さんも、おかみさんも、みんなどんどんやっちゃうの。好きだったのね。代稽古が。

 山本富士子先生の台詞なんかも、みんな覚えちゃうのよ。だから周りの人が面白がっていたの。でもね、それが結構、勉強になってたみたいよ。

 あたしはね、舞台に立つとき、役については嫌なものは嫌だと、突っぱねるけど、妾の役だろうが、なんの役だろうが、衣裳にはこだわっていたわよ。

 帝劇は東宝衣裳だから、東宝衣裳に行って、あたし、この色の衣裳がいいわって言って決めたりね。

 実際、私の気に入った、いい衣裳を着た時の舞台を見てくれて、「浪路」の役はどうかってオファーが来たんだから。

 だから、衣裳って大事なのよ。目立ついい衣裳を着るとそういう役の話が来るのよ。だから今も、衣裳にはこだわっている。きれいな衣裳が着られるなんて幸せよ。

 いろいろな先生の舞台に出させて頂いたけど、惜しいことしたなって、後で悔やむようなこともあったわよ。

 良く覚えている一つに、東宝歌舞伎で、長谷川一夫先生の西鶴五人女に出演していた時、北条誠先生からの出演依頼があったの。

 仲居の役だったけど、大勢いる中であたしを、抜擢して下さったのに断ってしまったのね。西鶴五人女は、帝劇で二か月のロングランだったから、無理かと思ってね。このようなケースもいくつかあったわねー。

 忙しい時のスケジュール調整も含めて、マネージメントは全て、あたしが自分でやってたのよ。

 富士子公演の時も一月の初演のあと、「今度、五月の御園座にも、あたしも入れて頂けませんか」って、直に電話したのね。あの、きれいな声で「そう、マネージャーに伝えておくわね」って富士子が応えてくれて、マネージャーからOKの連絡が入ったの。

 こういうケースは珍しいのよ。自分一人でやるのはね。どこにも所属しないで、一匹オオカミで乗り切るって大変なことなのよ。

 それでも、一回出ると、足がかりができるでしょ。あたしの連絡先を教えたりね。あたしも、各舞台の出し物など先取りして、プロデューサーに出演をお願いしたりするの。

 出演料も、単発でカウントされているから、裕福ではなかったけどね。時々はうちで、仲居の手伝いしていたから、食うや食わずの苦労は、全然知らないで来てしまったの。

 

【写真 三越劇場】

つづく…
(次回 『世界が一転、結婚生活十年でピリオド』 12月15日にアップします。お楽しみに)

 

  
 
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