このコラムは書籍『私の芸能生活六十五年』を、数回に分けて掲載いたします。
語り: 藤間 小紫鶴  聞き書き: 笠原 陽子

 

■世界が一転、結婚生活十年でピリオド

 

 

  え、結婚?
  結婚はね、富士子先生の公演も終わって、仕事に対する責任はなかったし、この辺で結婚するのもいいかなって、三十三歳の時にしたの。
表面的には、素晴らしい結婚だったけど、さすがの、わがままなあたしも参りましたね。
  天国から地獄って、このことかと思ったわね。子供を二人生んで、十年の結婚生活にピリオドを打ったのよ。
  自由に外出は出来なかったけど、この間、嫁ぎ先で、踊りを教えていたから、全く、踊りとプッツンしたわけでは無かったけどね。
  時々は会で踊らせて貰ってもいたし。
  何しろ、あたしにとっては、初めての挫折を味わうわけよ。
  世界が逆転してしまったの。
  制約なんか、何もないような自由気ままな自由な世界から、十年間、午後五時以降、夜は外出したことが無かったんだから。
  えらい目にあったわよ。
  離婚後は、実家に戻り、踊りを教えながら、子育てで大変だった。父母も、相変わらず忙しかったから、頼るわけにはいかなかったし、子育てに時間を費やしていたのね。
あたしは、父母には、放ったらかしにされて、淋しかったから、子供には、そんな思いをさせたくなかったのね。
だから、仕事を再始動したのは、随分経ってからだわ。そうね、本格的では無かったけれどやっぱり五十歳近くなっていたわね。
  その頃、ほら、ピーターのお父さんで、地唄舞の人間国宝・
  吉村雄輝先生の舞台に魅せられて、飛び込んだの。
  地唄舞は、見させて頂いている分にはいいけれど、実際、踊ると、動きのない地味な踊りだから、凄く難しくてね。私には向いていないと言うか、三年で断念したの。
  結局、あたしの場合は、マネージャーもいないし、おいそれとは、簡単に仕事は入ってこなかったの。
  それにマネージャーの話なんかあったとしても、殆どが嫌がったの。こんな役は嫌だとか、もう、わがままで有名だったから。
  あたしは、ほら、前にも言ったように何も知らないのね。
  お行儀とかルール。だからやりたいこと、言いたいこと、皆やっちゃってたでしょ。自由奔放に。
  だから、ひんしゅくも買ったし、当り前よね。
  「あの娘どこの子、知らない子」なんて言われてたんだから。
  いずれにしても、離婚後、仕事に飢えていたけれど、子育て中だし、物理的にもなんにも出来ない状況だったの。

 

つづく…
(次回 『藤間紫師に出会い復活する』 1月15日にアップします。お楽しみに)

 

  
 
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