このコラムは書籍『私の芸能生活六十五年』を、数回に分けて掲載いたします。
語り: 藤間 小紫鶴  聞き書き: 笠原 陽子

 

■藤間紫師に出会い復活する

 

 

  そんな中で、何人かのお弟子さんは来てくれていたのね。藤間紫先生とは、東急ホテルでお会いしたの。友達と一緒に、先生が紫派を立ち上げられたとお聞きし、入門したいと、話したら、
   「あ、そう、でもね、お名前を持っていらっしゃる方は駄目なのよ、お名前をお返ししてからでないとね」って、はっきり、おっしゃったのね。お名前って言うのは、流派で襲名した名のことよ。
  あたしは、花柳流は勿論、石井流のとこも、すでにお返ししていたし、地唄舞は名前を取っていなかったしね。
  子供の頃、お世話になった石井美代先生の話をしていたら、
   「ああ、美代さん元気」って、紫先生がおっしゃるの。
 美代先生と紫先生は、一緒に藤間の御宗家にお稽古させて頂いた仲だったのね。
  藤間の御宗家に習った美代先生に、あたしは、しっかり稽古をつけて頂いたのだから、話は早かったわ。それに、あたしは、地唄舞も踊っていたから、「あなたも踊りが好きなのね」って。
  紫先生に出会い、あたしは水を得た魚のように活気づいたわ。すぐに、代稽古をさせられたの。
  そして、平成七年に紫派・藤間流師範として「藤間小紫鶴」を襲名したのよ。二十年ちょっと前だったかな。
  紫先生って、本当に素敵な、魅力いっぱいの人だったわ。
  だから、あんな大恋愛が出来るのよ。
  踊りも凄いけれど、女優としてもトップクラスの実力を持った人だったわ。高貴な役をやっても、長屋のおかみさんやっても、上手くて魅せられっぱなしだった。あんな人、めったにいないわよ。
  女の魅力を十分持ちながら、一方で男っぽいところがあってね。紫先生も、あたしのことを気に入ってくれたの。
  ところがさ、あたしはお金がないしね。
  お金がないと、舞台に出られないのよ。お金が無いから、舞台に出られないって常々言っていたら、
   「それでは、一緒に踊りませんか」って、言って下さる奇特な方が現われたり、舞台で、踊りたいって言う、あたしのお弟子さんがお金を出して下さったりしてね。
  有難い話でしょ。
  でもね、基本的に代稽古してても、子供を抱えての生活があるので、アルバイトもしなければならないのよ。
  だから、つい、休みがちになっていたのね。

 

つづく…
(次回 『三越のカルチャー講師に』 2月15日にアップします。お楽しみに)

 

  
 
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