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■ 4月23日発行  このページの先頭へ
国が重要文化財に指定
隅田川の清洲橋、永代橋、勝鬨橋
 文化審議会(石澤良昭会長)は20日に開催された同審議会「文化財分科会」の審議・議決を経て、新たに11件の建造物を「重要文化財」に指定することを文部科学大臣に答申した。今回の重要文化財に、隅田川に架かる清洲橋、永代橋、勝どき橋の三橋が指定された。いずれも中央区と江東区とに架かる鋼製の橋梁として知られる。清洲橋と永代橋は、関東大震災後の帝都復興事業の象徴であり、勝どき橋は我が国で最大規模の跳開橋。当時の最先端の技術を駆使して建設され、我が国の橋梁技術史上、高い価値があることで共通している。なおこの三橋は新たに中央区が指定した「おはこ二十八景」に選ばれている。一方、区は観光事業にスポットを当てることにしており、特に勝どき橋については再び開閉しようという地元の熱心な働きかけも継続されている。

美を誇る「清洲橋」
 震災復興事業によって初めてつくられた。架設当時、西詰めが日本橋中洲町、東詰めが深川区清澄町であったことから、町名の各一字をとって橋名とした。架橋前の両岸は「中洲の渡し」で結ばれていた。中州の辺りは川の流れが隅田川・新堀・霊岸島と三方に分かれるところから、昔は三股といわれ、月見の名所で涼船が集まり花火の名所としても知られた。
 当時世界一美しい橋といわれたドイツ・ケルンに架かるライン河の吊橋を参考に、大正14年から丸3年を費やして昭和3年3月に完成。
 長さ186.7メートル、幅25.9メートル、有効幅員22メートルの自定式吊橋。垂直のケーブルの両端を連続した補剛桁に結合している、世界的に見ても珍しいもの。
 男性的な永代橋に対して、女性的な橋として知られ、夫婦橋とも言われ、その対比の美が讃えられる。

帝都入口「永代橋」
 震災復興事業の完成した時には、永代橋の下流には橋が一つもなく、視界の開けた情景を永井荷風は「永代橋河口の眺望を第一とする」と、折り紙を付けた。
 清洲橋との対比は「帝都の入り口」として意識的に演出されたといわれる。
 大正15年12月に竣工。橋長184.7メートル、幅員25.6メートル。橋脚及び橋台は鉄筋コンクリート造り。放物線状の大規模ソリッドアーチを中心とする荘重な造形により近代的橋梁美を実現している。また、建設当時、我が国で最大支間を実現した鋼アーチ橋であり、大規模構造物建設の技術的達成度を示す遺構として重要。
 木造の永代橋は元禄11年(1698)に架けられた。47士が渡って有名に。架橋後5年で焼失。さらに文化4年(1807)、富岡八幡の大祭に落橋して多数の死者を出した。

唯一開橋「勝鬨橋」
 橋の完成は昭和15年。この年は紀元2600年にあたり、その記念イベントとして予定されていた東京オリンピックと万国博覧会の予定地への入り口に設けられた。しかしこのビッグイベントは日中戦争が激しくなったために中止となり、橋だけが残った。開通式には親子三代の渡り初めに加え、「くぐり初め」も行われた。
 日本人の設計・施工で、戦前日本の橋梁技術の到達点として評価が高い。戦後、アメリカ軍はこの橋が日本人によることを信じなかったと言われる。
 中央経間の跳開橋は最大70度まで開き、3千トン級の船舶まで航行可能。電動機によって約70秒で開いた。
 竣工当時は1日5回20分づつ開いていた。昭和45年で、あかずの橋に。
 勝どきの名称は、日露戦争で旅順陥落を祝い渡船場を創設したことによる。
 
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