有田 芳男

江戸を造った日本橋川


水害を防ぐ

 徳川家康は江戸に入国すると、城下町の造成と江戸城の建設に着手しました。しかし造成中にも城下町は水害に弱く雨期にでもなると、常に洪水になやまされていました。造成なった下町を水害から守るために、昔からの平川と小石川を日比谷入江には注がさせずに、一つにまとめて東の方に流れている隅田川に落とす工事に着手しました。
 江戸前島の根元の神田山を切り開く神田川の開削工事は難工事で、現在も残っているお茶の水周辺の谷は、外堀通りから谷の底まで100メートル近い深さがあります。人の手によって造られても、永い歳月で自然の渓谷のようです。
 城下町の水害対策は各所でみられます。現在の中央、千代田区の昭和時代にあった河川は城下町を造成する時に開削された堀割でした。堀り削った土は、両側の土地に積み上げれば低い土地の「かさあげ」になる一挙両得の方法でした。

開削で造る川

 日本橋川の開削の初めの作業は、神田川から500メートル南の堀留橋あたりまでの埋立工事でした。これは本流の平川を切り放すことで洪水を防ぐのが目的でした。そして日本橋川として下流に向って開削工事が進みます。
 現在の一ツ橋、神田橋、常磐橋あたりの内壕のすぐわきを沿うようにして流し、日本橋、鎧橋、箱崎を抜けて永代橋あたりの隅田川におとす工事でした。
 日本橋川の最上流の飯田町の堀留あたりまで隅田川からの汐がくるのでしょうか、明治生まれの古老の話が想いだされます。水のとまっている堀留の石垣の間には子カニがいて、子供たちは競うように捕まえて遊んでいました。
 江戸時代の日本橋川は、明治36年になって500メートルの再開発工事で神田川とつながり現在の姿になります。

日本橋の架橋

 徳川家康が入国して10年あまりすぎた慶長10年(1608)に日本橋川に日本橋が架橋されました。
 江戸の古道として以前からあった浅草からくる奥州街道と芝口(新橋)からの東海道との接点である日本橋は、のちになって道路元標の基になって、五街道(東海・中山・奥州・日光・甲州)の始まりとして定められます。

魚河岸の誕生

 魚河岸が日本橋に出来たのは架橋されてすぐでした。徳川家に魚を提供するために、摂津の国から江戸に来た漁師たちは、家康から隅田川の河口の浅い場所を埋立て造成することを許されました。そこに居住の場所と漁船の船着場をつくって、漁の本拠地として佃島とよびました。
 佃島の漁師たちは、自分たちが習得している紀州の漁法で、隅田川から江戸入江一帯に出漁していました。
 江戸では見ることのできない優れた漁法でした。数艘の船で網をたてながら進み、魚群を追いこんで一網打尽にすれば大漁です。徳川家に提供する以上にとれてしまう。余った魚を人通りの多い日本橋通りで売ってもよいかと幕府に願い出た結果、叶い、これが魚河岸の始まりです。
 ここで扱う魚類全てが日本橋川を舟で運ばれて河岸に荷揚げされ売られていました。のちに魚を扱う土地も確保され、長浜町、大船町、安針町、小田原町、室町は俗称で魚河岸五町と呼ばれました。
 明治後半の早朝には、静かな人形町界隈に八丁櫓を漕ぐかけ声が聞こえてまいりました。日本橋川に架っている鎧橋のわきの末廣河岸あたりからでしょうか、大きなかけ声は8人の漕ぐ櫓に力が入ります。魚の鮮度をおとさないように、少しでも速く運ぶためです。特に寒い日などは、乾燥した空気を伝わっていちだんと大きく、力強く聞こえたそうです。そして朝早くから人間が動き、働いている活気までが感じることができたとのことでした。
 江戸の初めから関東大震災の大正12年(1923)まで320年間この地にあって栄えていた魚河岸も時代の変化と共に、まずは土地的に手狭にもなって、広い場所の残っていた築地に移ってゆきました。

河川で物流を

 日本橋川とその支流の堀割と、各々の河岸は江戸港の内港の役割をはたしていました。そして、江戸の物流の中心となって江戸の経済を支え、発展していったのが日本橋界隈でした。
 東西堀留川は日本橋川の支流で、東堀留川は現在の日本橋堀留で堀は止まっていました。鰹河岸、多葉粉河岸から団扇河岸とよばれていた河岸がありました。
 一方の西堀留川は現在の昭和通りの場所で、本町あたりで西にいって止まっておりました。醤(たまり)河岸、塩河岸、米河岸が並んでありました。扱う品物によって同一の荷揚場と、それを入れる倉庫があって、納まった品物の名前が河岸の呼び名になるのです。
 明治の人たちは、町名は呼ばずに河岸の名が町名と同じで会話が通じました。私たち若い連中で粋がって使う連中もいましたが、なんとなく浮いている様子でした。

河岸には問屋

 昭和の初めごろの箱崎から蛎殻町、小網町一帯では扱っている物品、特に食品の匂いがありました。河岸から道路いっぱいに広がった匂いで、商売はすぐ分かったものでした。店先や倉庫の道には匂いがしみついており、私の通っていた小学校のすぐそばにあった「お酢」の問屋さんでは店の休みの前日には、店の前の道路までデッキブラシで洗っていました。しかし子供の私たちにも酢の匂いは遠くからでもわかりました。
 日本橋川周辺の河岸には酒類、醤油、味噌の問屋の大店が集まっていました。とくに酒は新川に日本橋川に大型船で全国から、醤油は江戸川、小名木川から箱崎川、日本橋川と、当時での大量輸送は運河によって運ばれていました。味噌も同様でした。

なぜ行徳河岸

 江戸切絵図には行徳河岸と蛎殻町河岸に明記してあります。なぜ日本橋の蛎殻町の河岸に行徳河岸があるのかと考えたことがありました。
 江戸のむかしから深いつながりのあったのがこの界隈でした。あとでわかりましたが家康が入国して、行徳の塩を江戸に送る道として小名木川を開削したのが最初の仕事でした。千葉・茨城で醸造された醤油が江戸に運びこまれたのも行徳河岸でした。それから昭和12年ごろまでと思われますが、行徳がよい船着場であったのも思いだされます。蒸気船が出航して深川の小名木川に入ります。初の発着所(停泊所)が深川の高橋の橋詰にあって、客の待合所もあり、売店のおばさんが乗船券の切符切りもかねていました。
 昔から日本橋川の河口の箱崎周辺では河運が盛んでして人も物も運んでいました。その中でも必需品である醤油は大量に運ばれて荷揚げされていました。
 戦前戦後にあった醤油会社と銘柄を連記してみます。キッコーマン、ヤマサ、ヒゲタ、キノエネ、ヒガシマル、入正、宝、益子、東丸など。
 以上のように幾多の歴史をかさねてきた日本橋川は、東京の中心を流れ、東京の顔として、水は流れ生きているのです。(本文は昨年の隅田川サミットに向けての書きおろし。人形町2―19―6)