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伝統的食文化の行方を、築地魚河岸の現場からお伝えします 魚河岸発!
今月のテーマ、魚河岸ってなに?
魚河岸はかつて日本橋のほとりにありました。江戸時代には朝だけで千両の金が流れるといわれるほどの繁盛ぶりで、商業の中心地日本橋は魚河岸とともに発展したといっても過言ではないでしょう。また、そうした商いの勢いから鼻っ柱の強い独特の気風を生まれ、「江戸任侠精神発祥の地」といわれました。
 
東都名所 日本橋魚市 広重画 天保期朝千両の商い

 魚河岸というのはかつて日本橋のたもとにあった魚市場のことをいいます。
今をさかのぼること四百年前、摂津国佃村の名主森孫右衛門を筆頭とする漁師三十余名が家康に従って江戸入りし、江戸前海での漁業を許されるとともにそこで獲れた魚を御城に納め、そのあまりを市中に売ったという、これが魚河岸のはじまりとされています。
 日本橋は江戸の発展と共に商業の中心地として繁栄をみましたが、そのなかにあってとりわけ活況を呈したのが魚河岸なんです。「なんの千両は朝のうち」といいまして、これは江戸では日に三千両という金が流れるが、そのうちの千両は朝の魚河岸で動くというんですね。ほかに昼に芝居町で千両、夜は吉原で千両の都合三千両。何しろ江戸市民にとって魚介類は貴重なたんぱく源。その供給元の魚河岸がいかに繁盛していたかが分かります。

江戸任侠精神の発祥

 でも、魚河岸は単に大規模な市場というばかりじゃありません。皆さんは日本橋の北詰に日本橋魚河岸の跡地をしめす「乙姫さまの像」が建っているのをご存知でしょうか。そこに文学者久保田万太郎氏の筆になる碑文が添えられていて、「江戸任侠精神発祥の地」と記されています。氏は魚河岸を「魚が飛ぶように売れた土地」といわず、「江戸任侠精神」が生まれた土地だよ、とおっしゃります。ではこの任侠精神というのは何か。実は「強きをくじき弱きを助ける精神」のことで、江戸町人の美意識でもありました。

大正9年8月日本橋魚河岸水神祭に登場した鮪山車 魚河岸は御城へ魚を届ける使命を持っておりました。これは大変な名誉で、御用魚を運搬しているときは大名の行列さえも道をゆずったといいます。そんな様子に江戸市民は喝采を送りました。また、生魚を扱うから何事も手早く行わなねばなりません。そこで言葉遣いも行動もキビキビと小気味良くする。それが威勢よく見えます。「イナセ」という言葉は、魚河岸の若い衆が髷を魚の「イナ」の背中に似せて拵えたので、その姿から若くて威勢が良いものをいったんですね。だからお芝居に登場する魚河岸の兄イたちは、威勢が良くて義理堅い人物ばかりです。それは実際の魚屋たちの姿であるとともに、江戸市民の思い入れの象徴ともいえるでしょう。魚河岸は江戸のトレンドであったわけです。

江戸文化への貢献

 一方で魚河岸がその財力により江戸文化のパトロンとしての役割も果たしていたという面があります。たとえば歌舞伎の十八番のひとつ「助六」。そこに登場する河東節の創始者一寸見河東は魚河岸の出身であり、そんな由縁から助六上演に際しては歴代団十郎が魚河岸に挨拶に来るというのがしきたりで、魚河岸の方でも引き幕を送ったり初日を総見するという形になっていました。江戸でたびたび起こった火事で芝居小屋が焼失すれば再建に手を貸しますし、旦那衆はじめ魚河岸連中はみな大の芝居好きだったといいます。

 また、松尾芭蕉がその若き日に草鞋を脱いだのが魚問屋の二階でした。その際に世話をした若旦那が芭蕉十哲のひとり杉山杉風(すぎやまさんぷう)であったり、同じく芭蕉の弟子で江戸庶民の心情を軽妙にうたった寶井其角(たからいきかく)も魚河岸の出ですね。そんなふうに魚河岸の旦那衆が江戸の代表的文化人でもあるなど、文化の担い手として一目置かれる存在でもありましたから、そうしたことが手きびしい江戸市民の信望を集め、「江戸っ子の見本だ」といわれるにいたったのです。

昭和10年築地市場。勝鬨橋も新大橋通りも出来ていないツキジに残る魚河岸の気風

 しかし、江戸文化に華を添えた魚河岸も幕府の瓦解によりその勢いを徐々に失なっていき、ついに大正十二年の関東大震災によって煙と消える運命をたどります。いま日本橋川のほとりに立ってみてもかつての栄華を偲ぶことなど望むべくもありません。 ただ、「魚河岸」という言葉はいまも息づいております。日本橋魚河岸の問屋が引き移って出来た築地中央市場を慣習的に魚河岸と呼びます。いや、単に呼び名ばかりでなく、江戸以来の魚河岸風情というものが現在の中央市場にも色濃く残っているように思います。相変わらず威勢が良く、義理堅いという人情がそれですね。魚河岸は現在の築地中央市場に生きているといえます。

セリ場にこれでもかと並んだマグロ 最近では「世界のツキジ」などと言われ、その取扱高を誇ってみたり、時代のニーズに相応した食品流通の拠点としての側面ばかりが強調されておりますが、それはさておいてもっと大事なものがあるのじゃないか。長い歴史の中で育まれてきた日本の食文化。その中心であった魚河岸というものをよく考えてみたい。築地市場が日本橋魚河岸の延長であるなら、現在も、また将来にわたっても、まっとうな食文化の発信地であることが重要でないでしょうか。魚河岸が江戸開府とともに四百歳という長寿を迎えるこの節目に、私はその思いをいっそう強くするものです。



 「魚河岸発!」と題するこのコラムでは、先人によって培われた伝統的食文化の行方というようなものを、築地魚河岸の現場から皆さんにお伝えしていきたいと考えております。

生田與克―いくたよしかつ
1962年東京月島に生れる。
築地マグロ仲卸「鈴与」の三代目として築地市場で水産物を扱うなかで自然の恵みの尊さ、日本特有の魚食文化の奥深さを学ぶ。
現在、講演会などを通じて魚食の普及に努めるほか、ホームページ「魚河岸野郎」を開設。魚河岸の歴史と食文化を伝える“語り部”として精力的に活動している。

「築地の魚河岸野郎」
http://www.uogashiyarou.co.jp/


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2004年6月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  

 

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