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伝統的食文化の行方を、築地魚河岸の現場からお伝えします 魚河岸発!
今月のテーマ:食べられないけど、食べたい。だから、食べられるようにしよう
魚屋の店先にはいつも魚がずらりと並んでいます。あれもこれもおいしそう。旬の魚を存分に味わえるって、何て幸せなことでしょう。でもね、最初っからこんなにたくさんの魚が食べられたわけじゃないんですよ。食べ方が分からないとか、食べちゃいけない決まりがあるとか、食べたくても食べられない魚というのがあったんですね。今回はその代表ともいえる魚、コハダについてお話しましょう。

“コハダは江戸っ子好み”

 私にひとりの叔父がおります。この人が生っ粋の江戸っ子でして、日本橋蛎殻町に生まれて66年間、いちどだけ伊勢参りに出かけた以外は町内から出たことない、という大変に土着的な人なんですね。この東京原住民は、通常の都民と比べても生態、風貌、骨格にいたるまで著しく相違を見せているのですが、ことに話っぷりなどきわだっておりまして、「“イ”だよ“イ”、江戸川の“イ”」、などとさっぱり分からない。分からないけれど、そのイントネーションが実に気持ち良く、こういうのが江戸言葉なのかなあ、と聞き惚れてしまうんです。
  子どもの時分にこの叔父に連れられて、よく近所の寿司屋に出かけました。私はかつてひどい偏食で、寿司屋に行ってもアワビしか食べられず、あまり好きな場所じゃなかったんですが、叔父といっしょに行くのは楽しみでした。というのも叔父はカウンターに坐るなり、「この子にはアワビを好きなだけ」と言ったきり、無言で出されたコハダを2,3個、さっと放り込むように食べると、あとは酒をちょっと入れて、それでお仕舞い。他には何も食べない。それが何処か格好良く感じたものです。
  何でコハダしか食べないの。そんな疑問に叔父ははかばかしく応えなかったと思います。ただ、コハダが好きだと。それも味というのじゃなくて、コハダという魚が好きなんだ、という印象を受けました。それで私の脳裏にこう刻まれたものです。
  コハダは江戸っ子好みの魚。

“コノシロ伝説”

 コハダは沿岸部を回遊する浮魚です。この魚の特徴は何と言っても、成長とともに呼び名がかわる「出世魚」でしょう。関東では幼魚をシンコまたはジャコと呼び、15cm程度のものがコハダ、関西ではツナシ、そして成魚をコノシロといいます。
  その昔、江戸湊にはコノシロがたくさん泳いでいました。そこで漁師はかたっぱしから捕まえてみるのですが、ところがこの魚、煮ても焼いても生でも、どうやっても食えた代物じゃありません。ことに焼くとですね、死人の臭いがするというんですから、いやどうにもなりません。
  じつはコノシロにはこんな言い伝えがあります。
658年というから古代国家の時代です。孝徳天皇の皇子である有馬皇子が都を追われ、下野国、今の栃木県のあたりの村落に落ちのびたとき、その土地の五万長者という郷士の家に寄食する身となりました。するとこの五万長者の娘が下野小町と呼ばれるほどの美少女です。一方の有馬皇子もいわゆるギャル好みのイケメン。ね、美少女とイケメンですから、あとは冬ソナでしょ。二人は恋に落ちまして、ほどなく娘のお腹はぽってりと。有馬皇子はまさに若気の至りです。ところがこの娘、実は常陸国の国司と婚約の身にあったというから大変です。困り果てたのが父親の五万長者ですよ。どうしよう、といろいろ頭をしぼって、「あ、そうだ!」と思いついたのが、娘を死んだことにしよう! 
まるでガキの発想ですね。さっそく国司に訃報を送ります。「かねてより病気療養中の処、本日丑の刻、薬石効なく逝去しました。享年十五歳…・・・」なんてね。次に何を思ったか、浜へ出かけてありったけのコノシロを揃えて来いと部下に命じます。そうしておいて大工に図抜け大一番小判型という巨大な棺桶を作らせ、あつらえたコノシロを満杯になるまで入れました。やがてこれに火を放つと、もうもうたる煙があたりを包み、一里四方に屍の臭いがたちこめたといいます。葬儀にやって来た国司もその臭いに我慢しきれず、記帳もそこそこに、香典だけ置いて逃げるように帰っていったと。いやめでたしめでたし。まあ、そんなわけで、そもそもコノシロという名前は子の代わり、つまり「子の代」からついたという落し噺でございます。

“武士は食べちゃいかん”

 そういうわけでコノシロは嫌われものの魚。でもたくさんいるでしょ。これを食べられないのはシャクで仕方ない。何とかしてこれを食べられるようにして、そして売りさばきたい。そんな漁師達の強い一念がついに身を結びました。こいつをおいしく食べる調理法というのが開発されたんですね。つまりコノシロに塩をして酢で〆ると臭味が抜けて、実にさわやかな味わいになると。それで、何しろたくさん捕れますから、よろこんで食べます。ことに江戸人は大変に好んだようです。
ところがそれでも食べられない人びとがおりました。武家の人たちです。コノシロという魚、死ぬと腹が切れます。これが切腹に結びつくという理由で、縁起が悪いとかれらは決して口にしませんでした。もうひとつ。コノシロという名前が「この城」につながる。城勤めの侍が城を食うとは何事かと、考えてみれば馬鹿馬鹿しいことですが、同じような理由で武士の食べなかった下魚ってたくさんあったんですよ。
でもね、武士は食わねど高楊枝などといいましても、やっぱり食べたい。食べたいものは食べたいわけで、何とかこいつを食べる方法はないか。そうだ、どうだろう、コノシロじゃなくてもっと違った名前にならんか? ナニ、コハダ、よしそれならば、食おう!
そんなわけで、江戸ではコノシロであってもコハダと呼んだわけです。切って、寿司にして、名前もコハダとすることで、お侍さんたちも、大ぴらにとはいかないまでも、ちょいとこっそりと舌鼓を打つということができるようになったわけですね。

“コハダを愛する郷土のこころ”

 坊主ダマして還俗させて コハダの酢でも売らせたい
  あの坊主はなかなかのイケメンじゃん。お経を読ませておくには勿体ないよ。いっそ還俗させて寿司売りにでもさせたら粋だろうねえ、という意味のうたですね。寿司屋の初期の形態は振売りでありまして、寿司の振売りといえば江戸市中ではコハダです。それもきりりとした良い若い衆が売るものと相場が決まっておりました。それほどコハダの寿司というのは粋な食べ物だ、実に江戸っ子好みだ、とされていたんです。
  食べたいけれど食べられない魚。それを何とか食べられるように工夫をして、やがて人気の魚として成長させるまでには実に紆余曲折があったわけです。そこに込めた当時の人びとの思いはいかばかりであったろう、と想像するとき、この魚を賞玩することは生まれた土地に対する愛着にちがいないと、あらためて思いあたります。また、そうして考えれば、寿司屋でコハダしか注文しない叔父の心持というものも、やがて知れてくる気がします。



生田與克―いくたよしかつ
1962年東京月島に生れる。
築地マグロ仲卸「鈴与」の三代目として築地市場で水産物を扱うなかで自然の恵みの尊さ、日本特有の魚食文化の奥深さを学ぶ。
現在、講演会などを通じて魚食の普及に努めるほか、ホームページ「魚河岸野郎」を開設。魚河岸の歴史と食文化を伝える“語り部”として精力的に活動している。

「築地の魚河岸野郎」
http://www.uogashiyarou.co.jp/


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2005年1月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  

 

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