東京中央ネットロゴ NPO(特定非営利活動)法人東京中央ネット 東京中央ネットは中央区のポータルサイトです。
東京中央ビジネスナビ参加企業について
検索する
サイトマップ お問い合わせ
HOME > 特集 > 中央区都市観光編 > 築地場外・明石町編
築地場外・明石町 後編

築地場外・明石町トップ前編|後編|情報アクセス

鳥藤 住所:4-10-18 TEL:03-3541-2545
営業時間:5:00〜13:00
築地本願寺  各種鶏肉や合鴨肉等を扱う、明治40年創業の「鳥藤」。お客様の8割は飲食店等のプロですが、国産品から輸入品、また得用品から高級品までと扱い商品の幅が広く、小売も100グラムから行っているため、朝9時を過ぎる頃からは、主婦や観光客等が店先に溢れます。各地の地鶏は、人気の「大山鶏(1キロ1100円)」をはじめ、「名古屋コーチン(同3200円)」、「比内鶏(同3200円)」、「東京しゃも(同3500円)」と豊富で、百貨店に比べ約3割の安さで販売しています。また合鴨は全ての部位が揃っています。3代目店主の一押しは岩手県の生産者と協同開発したビタミンEが豊富な「久慈藤鳥」(もも正肉1キロ1600円、むね正肉同1100円)。土曜日は、モモ、つくね、レバー等通常業務用として販売している8種類の焼鳥をその場で焼き、1本全60円で販売しています。

藤本商店 住所:築地4-10-1 TEL:03-3541-3353
営業時間:5:00〜14:00
浅田水産  業務用高級野菜から、日常家庭用の身近な野菜まで、季節の新鮮な野菜が店頭に並ぶ創業昭和18年の「藤本商店」。お客様は、9割が日本料理屋等のプロですが、小売もしていて、町のスーパーでは扱わない野菜等も手に入るため料理好きの主婦等にも喜ばれています。2代目店主のおすすめは、勿論四季の野菜。早春は、鹿児島の筍から始まり、夏は京都府加茂産の「加茂なす(1本300円位)」や、日常馴染み深い、きゅうりやピーマン、秋は京都や静岡産の海老芋(1キロ1200円〜)や、岩手・宮崎・長野・山梨産などの国産や中国産の「松茸」、紫色で香りや粘り気の多い静岡産高級山葵「真妻(1本900円〜)」、また鍋の季節には橙等、四季折々、多種多様な野菜が並びます。土曜日は、1000円以上の買い物で、おまけの一品をサービスしてくれます。

ヨネモト 住所:築地4-11-1 TEL:03-3541-6473
営業時間:5:30〜16:30
青木よせもの店
 昭和35年の創業以来、市場帰りやオフィスの人々から本格的なコーヒーの味と香りが愛され続けるヨネモト。コーヒー豆を入れた瓶には焙煎日や、甘味・苦味・酸味・香りなどの表示がされ、種類は約20種類。2代目店主のお奨めは、エスプレッソとホイップされたミルクがミックスされ、更にその上のシナモンが香り豊かな「アイスカプチーノ(300円)」。ミルクを加えたエスプレッソと、ミキサーで砕いた氷の歯ざわりが絶妙な「フローズンマキアート(300円)」も、ひんやりと爽やかで人気を集めています。
 その他、「カプチーノ(300円)」や「エスプレッソ(S、200円、L、300円)」等、何れも香りの高さが好評です。コーヒーのテイクアウトは50円引きで、サンドイッチ等軽食も楽しめます。土曜日は、コーヒーにピーナッツが付き、限定でケーキがメニューに加わります。  場外市場でおいしいものもたくさん食べたし、お腹も大満足。
 さて、異国情緒豊かな明石町の名所や史跡をゆっくり、散策してみましょう。

山長 松江 住所:築地7-16-13 TEL:03-3541-0289
営業時間:4:00〜12:00
築地 蔵まぐろ  通称「玉子焼き通り」と言われ5軒の玉子焼き店が並ぶ通りにある、創業昭和29年の「山長 松江」。昭和44年にこの界隈で最初に導入した、1時間あたり120本の玉子焼きを製造する全自動連続玉子焼き機で、早朝から1日800本を焼きます。
 昨今は、生産性が高く割安な冷凍の割卵(液卵)を使用する店も多いのが現状ですが、衛生面や品質が検査済の宮崎県都成産や千葉県横芝産の全農規格特級鶏卵100%を、その場で割って焼いています。本鰹節100%のダシに、「本なおし」(酒とみりんの中間のもの)を調味料に使うのが2代目店主自慢の味の秘訣です。増量材・合成保存料・着色料・甘味料等一切使用しない「玉子焼き(1本600グラムで560円)」と、「だし巻き(1本300グラム230円)」は、鮨のしゃりに合うようほんのり甘めです。お客様の殆どが鮨店や料理店等ですが、小売りも行います。

波除稲荷神社 住所:築地6-20-37 TEL:03-3541-8451
 場外市場の南、海幸橋の脇にある「波除稲荷神社」は市場の守り神として、古くから地元の人々の厚い信仰を集める水難除けの神社です。創祀は万治年間(1658〜61)、築地の埋めたて工事は波が荒く工事の難行を極めましたが、海中から引き上げられた稲荷明神を祀ったところ、波が静まり工事を無事完成に導いたと伝えられます。社殿前の天水鉢は、天保9(1838)年、現在の中央卸売市場の南半分を蔵屋敷として有していた尾張徳川家の藩船の無事を祈願して奉納されたものです。鳥居を潜り右手の、嘉永元(1848)年に製作され江戸時代末に焼失した獅子頭を平成2年に復興させた、高さ2.4メートル、幅3.3メートル、重さ1トンの日本一巨大な金色の「天井獅子頭」は、天水鉢と共に区民有形民族文化財に登録されています。左手の「お歯黒獅子」は、3年間の製作期間を経て2002年6月、雄の天井大獅子に次いで復興した雌の獅子頭で高さ2.15メートル、幅2.5メートル、重さ700キロです。

シーボルトの胸像 住所:築地7-19-1
たねいち
 幕末に約1ヶ月間江戸に滞在し、日欄の橋渡し役として日本の蘭学者に多大な影響を及ぼす等の功績を残したシーボルトの胸像が、あかつき公園噴水近くに建っています。
  文政6(1823)年7月、オランダの商館医員として長崎に到着し診療の傍ら、塾を開く等して活躍し、同9年3月4日から翌月12日まで日本橋の長崎屋に止泊しその間、江戸の蘭学者に面接指導をする等、並々ならぬ影響を与えました。同11(1828)年、帰国の際、幕府天文方の高梁景保らから入手した日本略図や、蝦夷地図、葵の紋服等をオランダに持ち出そうとした「シーボルト事件」が発生し、12月に国外追放されました。彼は、江戸蘭学の絶大な貢献者であり、また長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したことなどから、この地へのゆかりの深さと功績を称え、胸像が建てられています。

アメリカ公使館跡の記念碑 住所:明石町8-30
たねいち
 ペリー来航で横浜開港の後、明治元(1868)年、明石町付近には外国人居留地が開かれ、外国の公使館もいくつか置かれていました。
 当初は、麻布の善福寺に置かれていたアメリカ公使館ですが、明治8(1875)年築地居留地に移転し、同23(1890)年までこの地にありました。今も、公使館時代の遺品である5基の小松石の記念碑がこの明石町のアメリカ公使館跡地である聖路加ガーデン等に残されています。記念碑には、当時のアメリカ国章である五稜の星、楯、鷲が彫られ、居留地時代の名残として区民有形文化財に登録されています。
 この5基のうち、2基は聖路加ガーデン2階の大家根広場前の庭に現存しています。残る3基は、聖路加国際病院に隣接の聖路加看護大学(明石町10)の教会前の庭にあります。

築地居留地跡 住所:明石町9
たねいち
 修好通商条約を結んだ外国人の居住・営業を許可した地は居住地と呼ばれました。明治元(1868)年、明石町付近は外国人居留地に指定され、明治3(1870)年から用地の分割貸与が開始し、住宅・公使館・学校・病院・教会等の洋風建築が建設され、外国人医師や宣教師、知識人等が多く居住し、日本の学問や文化の発展に大きく寄与しました。居留地内は一種の治外法権下にあり、外国人の不法行為が相次ぐ中、不平等条約改正を望む国民の声も高まり、明治32(1899)年の条約改正により廃止されましたが、この間、外国人がもたらした影響は大きく、この地は洋風文化の拠点となり、西洋風の街並みが現れ、史跡が今も多く残っています。また、布教活動のため宣教師らがミッションスクールを設立し、その発祥地としても広く知られます。説明板は聖路加国際病院東門前、バス停横の花壇の中にあります。

蘭学事始地 住所:明石町11先
たねいち
 この地は、豊前国(大分県)中津藩奥平家の下屋敷のあった場所で、藩医で蘭学者の前野良沢(1723年〜1803年)が、杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周らと共に、この屋敷内で、明和8(1771)年から3年の年月をかけオランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を初めて翻訳し「解体新書」5巻を完成させました。当時の苦心は、杉田玄白(1733年〜1817年)が晩年に「蘭学事始」で詳細を書き残し、福沢諭吉により出版されました。この地は近代医学発祥の基礎を築いた場所とし、都指定旧跡に登録され、聖路加病院交差点には石碑が設けられています。これと並び、「慶應義塾開塾の地の碑」が建っています。安政5(1858)年、藩士福沢諭吉が蘭学の庇護者であった中津藩の命により、同じ中津藩中屋に蘭学塾を開き、慶応4(1868)年、芝(港区)へ移転した際年号に由来し改称した「慶応義塾」の礎をこの地で築いたものです。

浅野内匠頭邸跡 住所:明石町10-11
たねいち
 「忠臣蔵」で有名な、播磨国(兵庫県)赤穂藩主、浅野家の上屋敷地がここにありました。広さ8900坪、西南の二方が築地川に面しており、延宝7(1679)年の江戸図にも浅野又市(長矩)の屋敷として確認することができます。
 元禄14(1701)年3月、藩主長矩は、幾度とも重なる恥辱に耐えかねて、江戸城中・松の廊下で、吉良義央(上野介)に対し、ついに刃傷事件を起こし、即日切腹を命ぜられ、浅野家は断絶し屋敷も明け渡すという悲劇に及びました。
 翌年、大石良雄(蔵之助)を中心とした四十七士の家臣が、藩主の無念を報いるため引き起こした仇討物語は余りにも有名で、寛永元(1748)年の大阪での浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」を初め、多くの芝居や映画等にもなりました。築地川公園に面した、聖路加看護大学の脇に、「浅野内匠頭邸跡の碑」と説明板があり、都の旧跡に指定されています。

*

築地場外・明石町トップ
前編|後編|情報アクセス
2002年7月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
copyright2004 Tokyochuo.net All Rights Reserved.
東京中央ネットについて 東京中央ビジネスナビについて このサイトについて プライバシーポリシー