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プロフィール
 昭和28(1953)年、8月9日生まれ。昭和52(1977)年、青山学院大学経営学部経営学科を卒業後、三井航空サービス株式会社に入社。海外旅行の団体セールスや企画等を12年間経験の後、平成元(1989)年8月より、家業の「ホテルかずさや」に常務取締役として入社。平成5(1993)年、4代目代表取締役社長に就任し、ITを導入した新時代のホテルづくりに尽力する傍ら、東京都旅館組合副理事長等他数々の役職を歴任。更に2002年度より、本町4丁目西町会青年部本栄会会長として多忙な毎日を過ごされています。ご家族は奥様と、学生のご子息がお2人。ご趣味は、旅行とスポーツです。
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時の鐘通り命名を祝う

 日本橋本町は、約400年前の徳川幕府開闢当時、町割りに際し「本(もと)」になる町という意味で本町という町名が付けられたといいます。昭和30年代の高度経済成長期から都市化の一途をたどり、街は著しく変貌を遂げました。日本経済の中心であることに違いはありませんが、オフィスビル等の進出で、昔ながらの街並みは消え、下町情緒が薄れてきていると寂しがる人の声も聞かれます。今回は、この歴史と伝統の街、日本橋本町に再び賑わいを取り戻そうと、その活性化に取り組んでいらっしゃる本町4丁目西町会青年部本栄会会長の工藤哲夫さんにお話を伺いました。
 
中央区との関りはどのようなものでしょうか。
 
 家業は、明治24(1891)年、上総屋旅館として、この日本橋本町に創業し、2001年9月、創業110周年を迎えた「ホテルかずさや」です。生まれてから結婚するまでの間、ずっとこの本町に住んでおり、学校も小学校までは地元に通っておりました。現在の住まいは台東区になるのですが、最初の勤めを退職し、当ホテルに入社してからは、仕事の関係上、更に中央区との関りも深いものとなって参りました。
 昭和39(1964)年の東京オリンピック開催を境に、前年の高速道路の完成等、東京の街は著しく様相を変えました。それ以前の日本橋界隈というと、今よりはずっとビルも疎らで、何より、ここに住み生活している人の数がかなり多かったように覚えています。大通りから、路地に一歩入ると、子供の遊ぶ姿が見られ、魚屋さんや八百屋さんのような、小売店舗が軒を並べており、下町という色合いが濃く残っていました。
 
本町4丁目西町会青年部本栄会についてお聞かせ下さい。
 
 本栄会は、本町4丁目西町会の青年部として平成5(1993)年10月に発足しました。
 この地域も、中央区全体が抱える、昼夜間人口に極端な差があるという地域の特殊性や住民の減少、後継者の問題等、町会を運営していく上で様々に深刻な問題を孕んでいます。
 その様な中で、この街が更に発展し活性化していくように、以前からの本町4丁目西町会の活動に加え、時代を担う若者達の育成をも含めた、待望の青年部が結成されました。歴史と伝統ある町会の青年部として更に栄えていくよう、会の名称も「本栄会」となりました。私は、今年5月の総会で選出された3代目会長となります。会長の任期は一期が2年で、概ね二期を務めるのが先例となっております。会員は、町会内に在勤在住の、約30名で、1割が女性。定年の55歳を過ぎると、相談役として会に貢献するというのが通常です。
 
本栄会の具体的な活動について、お聞かせ下さい。
 
 定例の行事は、1月の新年会、5月の総会、秋のバスハイク、月1度の役員会等があります。この他、地域の活性化や親睦のためのイベントとして、大変好評だったのが地元の地蔵公園で行う夏の「ビールパーティ」です。本栄会のオリジナル地ビールを作って振舞ったこともあり、訪れた方々に大変喜んで頂きました。これに続き、2001年3月より始めたのが、同公園で行うお花見です。ビルの谷間の本町に憩いの場として、馴染み深い公園に桜を植え花見をしようと、町おこしの一環として区に願い出て、3年前ソメイヨシノ約5本を植えてもらったものです。公園の敷地に仮設テーブルを設け、会員の経営する店等から持ち寄った食べ物やビール・お酒等を私達で準備する宴となり、町内の人達や、近隣の会社にお勤めの人達等、約300人が集まります。今後は、花をもっと長い時期楽しめるよう多種の桜を植えていきたいという夢もあります。
 
本栄会が携わられた「時の鐘通り」の命名についてお聞かせ下さい。
 
 日本橋地域は、江戸時代からの伝統と歴史を持ちながら、現在は近代的なビジネス街としてのイメージが色濃いという事実は拭い去れません。そこで、江戸発祥の地として歴史的な名称や史跡を復活させ、本来の賑わいを取り戻したいという願いから、江戸時代、城内から旧石町(現・本町4丁目)に移された「時の鐘」(文末参照)にちなみ「鐘つき新道」と呼ばれていた通りを「時の鐘通り」と新しく命名し、多くの人に知って頂こうということになりました。2002年春、この名称が区から正式に承認され、この通りの名称を記すプレートが、室町四丁目・本町四丁目西・本町四丁目東・小伝馬町一の部の4町会の各道路路面上に1枚ずつ埋め込まれました。その60センチ四方のブロンズ色の鋳物のプレートは、中央区の花であるツツジと区のシンボルマーク、そして「時の鐘通り」の文字がデザイン化されています。今後は、通り全体を趣のある石畳にするとか、時の鐘をデザインした街灯を設置する等々、会の中からも様々なアイディアが出ているところです。
 
中央区の次世代を担う若者として伝えていきたいことは?
 
 日本橋地域は、江戸開闢以来、商業の街としてそして経済の中心として長い時代を経て栄えてきた街でありますが、近頃は、新宿副都心やお台場地区、そして品川の再開発等に伴ない、街の空洞化が目立っています。この街の元気と賑わいを再び取り戻すためには、大通りは勿論のこと、横丁の道等にも下町情緒が漂い活気溢れる様子を現すような街づくりに努めることが大切だと思います。横筋や縦筋等の脇道が、もっと賑やかになるようなことに力を尽くすことで、それが我々の商売の発展へとつながり、延いては街全体の盛りあがりを見せてくれるような、街の活性化へと導くことができればと思っております。そのことに、地域としての町会や青年部組織が、少しでも役にたてればと思いながら日々活動をしている次第です。
 
 「時の鐘」は、二代将軍秀忠公の時、江戸時代に初めて設けられた、一般庶民に時を告げる鐘であったそうです。後、江戸城内から旧石町(現在の本町4丁目付近)に移され、明歴、寛文、延宝と3度の火災を受けながらも、江戸城下の人々に時刻を知らせる大切な役目を果たし続けてきました。宝永8(1711)年に鋳造した「宝永時鐘」は十思公園(日本橋小伝馬町3丁目)に今も納められています。
 当時、鐘の響きは48町にも及んだそうです。時代を超え、再び以前のような賑わいのある街を取り戻したいという工藤さんや地域の方々の厚い願いが、この「時の鐘」の響きと同じように、人々の心に深く響き渡りますようにと、願うばかりです。

2002年9月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  


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