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プロフィール
昭和52(1977)年1月25日生まれ。武蔵野女子大学で日本文学を専攻。在学中、浄土真宗仏教学の山崎龍明教授の授業、同大学の付属研究機関である仏教文化研究所に所属。社会問題と仏教の関わりについて学ぶうち実践活動にも興味を持ち、築地本願寺仏教青年会に参加するようになられたそうです。平成13(2001)年3月、同大大学院を卒業。現在は仏教系出版社、大法輪閣で編集部員にお勤めでいらっしゃいます。
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中央卸売市場と並ぶ築地の顔と言えば築地本願寺です。昭和9(1934)年に完成した建物は、浄土真宗本願寺派の関東における中心としての存在感に溢れています。地域にも親しまれてきた本願寺では、より多くの人々に浄土真宗を知っていただく活動の一環として築地本願寺仏教青年会(つきじYBA)があります。平成13(2001)年5月、同会の会長に就任した麻生晶子さんにお話をうかがいました。
 
中央区との関わりはどのようなものでしょうか?
 
 大学に入学し、仏教文化研究会という研究機関の研究生になりました。その研究所ではゼミのような形式で様々な社会問題を取り上げ、仏教の視点からどう捉えていくのかについてレポートや議論を行いました。私の専攻の日本文学と深く関わる仏教についてもっとよく学び、実践活動にも携わってみたいと思い、築地本願寺仏教青年会に参加するようになりました。当時から大学の合宿等、本願寺で行われる行事に出席するために築地に通っていましたので、中央区との関わりは5年目になります。
 
麻生さんと築地本願寺仏教青年会との関わりについて、お聞かせください
 
 築地本願寺仏教青年会は略称を「つきじYBA」と言います。YBAはYoung Buddist Associationの頭文字を取りました。当会の趣旨は多くの方々に浄土真宗を知っていただき、人間としての生き方や身近な社会問題を仏教の立場から考えていくことです。今年の3月に大学院を卒業して社会人になり、わたし自身職場でとまどうことも多い毎日ですが、会員同士の交流を通じて支えられています。5月の総会で、2001年度の会長を務めることになりました。今後、地域の若い方々にも積極的に参加を呼びかけていきたいと思っています。
 
つきじYBAの活動について、お聞かせください
 
 YBAは全国に約260団体あり、多くのメンバーが活躍しています。
その中で、当会は約40年以上の歴史があり、10代から30代まで20人ほどの会員がいます。今年は築地本願寺が全YBAの大会である全国真宗青年の集いの開催地に当たったため、8月まではその準備で大忙しでした。現在の主な活動の一つとして、毎月第1土曜日の午後4時から6時まで開かれる定例会です。“お釈迦様の生涯に学ぶ”“親鸞聖人の生涯に学ぶ”等年間テーマを決め、講師の講議の後、少人数のグループで話し合いをしています。今年度はとくに“仏教と社会の関わり”を意識し、少年問題など現代的な社会問題を取り上げています。会員以外の方も参加出来ますので、お気軽にいらして下さい。また、2002年3月2日に一般の人を対象にした公開講座も予定しております。他の活動としては、築地本願寺の花まつりや盆踊り大会など様々な行事に参加、スタッフとしてお手伝いをしています。会員相互の親睦を深めるため12月には親鸞聖人ゆかりの地などを訪ねながらの忘年会等を行います。特に地域の若い方に参加していただきたいのは本願寺主催の成人式(2002年は1月12日予定)です。これはパイプオルガンの演奏による音楽法要で行われ、僧侶による法話の後、参加者に献花、献灯、献香をしていただきます。式の後は懇親会もあり、厳かな儀式の後、リラックスした雰囲気を楽しんでいただけます。行政の成人式に出席できない方はぜひご参加されてはいかがでしょうか。
 
中央区の次世代を担う若者として伝えていきたいことは?
 
 若い世代は宗教に関心がないと言われていますが、宗教関係のホームページの掲示板などを見ると多くの若者が自分の人生について真剣に悩んでいます。仏教を学ぶことで、現代の様々な問題に対して角度を変えた見方ができるようになると思います。わたし自身、つきじYBAの活動を通じてたくさんの友人ができ、学校や職場では話せないような悩みについても相談できるようになりました。環境や年代の異なる人から意見を聞いくことにより、気づかされることもたくさんあります。中央区にお住まいの方や職場がある方には、若者のための身近な交流の場として、つきじYBAを積極的にご活用いただけるとうれしいです。
 
愚禿 親鸞
 
「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあられみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども。おもうがごとくたすけるとぐること、きわめてありがたし」。「歎異抄」の第四章にある親鸞聖人の言葉です。
私の祖父は脳梗塞で倒れて以来、右半身不髄になり、私が高校2年生のときに亡くなるまで、12年間闘病生活をしていました。在宅介護だったので、かなり家族に負担が強いられました。特に大変だったのが祖母です。でも、祖母が懸命に看病すればするほど、祖父はよくなりませんでした。私も祖父に良くなってほしくてリハビリに付き合いました。祖父の元気に歩いている姿がみたくて、こんなに一生懸命やっているのにどうして良くならないのだろう、という問いが心の中に何回も生まれました。そんな祖父の死は突然やってきました。風邪をこじらせ肺炎を併発したのです。あっけないほど、突然死はやってきました。私にとって祖父の存在は何にも役に立たなくてもいい傍に居てくれるだけよかったのです。祖父の死は仏教に出会う前までの私にとって辛く悲しい思い出でした。
大学に入り、仏教の教えと出会い、祖父は闘病生活を通して、自己のできる限りを尽くし懸命に生きることの大切さを、毎日の生活の中で私に訴えかけてくれていたことに気づかされました。私は祖父を治してあげたかった。でも、それはとても傲慢な思いだったのです。逆に私が祖父に助けてもらっていたのです。私たちは誰かを幸せにしたい、助けてあげたいと思います。でも100%絶対に助けたいと思う人のことを救うことはできないのです。人間の力では限界があることに気づかされました。この言葉は私の中でいまも生き続けています。
「愚禿 親鸞」。鎌倉時代、逆境に置かれた自分自身を「愚禿」と名告りながらより精力的に活動を続けた親鸞聖人。「愚禿」と名告りどのような環境にあっても自分を見失わずに生きる意志として社会人1年生の麻生さんは、最近この言葉の重みを噛みしめているそう。学生時代とのギャップにとまどう毎日ですが、試練の中にこそ自分を見失わずに頑張っていきたいという麻生さん。仏教との対話を糧に、現代を真剣に生きる若者の爽やかさを感じました。

2001年10月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
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