聖路加国際病院盛大に創立100周年式典開催
三笠宮夫妻がご臨席

 明石町の聖路加国際病院が創立100周年を迎え、18日午後4時から帝国ホテルの富士の間で盛大に記念式典が挙行された。
 桐朋学園オーケストラの奏楽で三笠宮同妃殿下がご入場し、ご臨席のもと式典が宮崎総子さんの司会で始まった。
 井原泰男チャプレンの開会の祈りに次いで日米国歌が演奏された。舞台正面には両国旗が掲揚されていた。
 理事長の日野原重明氏が挨拶。ルドルフ・ボーイング・トイスラー博士が1900年に来日し、2年後の明治35年、「小さな有床診療所的な病院として発足した」創業の歴史をひもといた。米国聖公会からの長期にわたる経済的、人的支援を得て病院の近代化が実現していくが、新築の緒についたばかりの病院と看護学校も関東大震災により完全に崩壊、灰燼に帰した。しかしその後も米国聖公会の好意的な支援が続き、昭和8年には東洋一といわれた聖路加メディカルセンターが完成するが、トイスラー院長は翌年、58歳の若さで心筋梗塞のため急逝する。
 太平洋戦争が始まると戦時下ということで米国籍の職員は退去され、病院名も大東亜中央病院・学校名も興健女子専門学校に改称され、さらに十字架の撤去という悲劇を余儀なくされる。そして終戦してから2週間後に米国陸軍病院として10年間接収される。戦中も戦後も聖公会の支援は打ち切られたままながら職員は自立して24床の病院を支えつづけた
 とくに日野原理事長は当時の3代院長・橋本寛敏氏の指導を高く評価、今日の聖路加の礎(いしづえ)を築いたとたたえた。そのご菅原虎彦院長のときに病院建て替えの検討が始まり、野辺地篤郎氏、牧野永城氏、岩下一彦氏の3代にわたる院長のもとでプランニングされ、全室個室という新しいタイプの病院が、日野原氏が「ボランティアの院長としての役目を4年つとめて新病院の滑り出しの指導」をして、櫻井健司氏を院長に、自ら理事長に専念して今日に到ったとして、100年を契機にさらなる革新的な変革をつづけることを誓った。
 櫻井院長の挨拶に続いて、米国公使参事官、在来聖路加後援会代表、日本病院会の中山会長から祝辞が寄せられ、厚生労働省の篠崎医政局長の発声で乾杯・歓談に入った。創立者トイスラー博士の孫と一族も列席して日野原理事長から紹介された。