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その頃(日露戦争から明治末年)のお出先さんで、いいところというと、待合で芳町の百尺、浜町の金竜亭、弥生、相生、茅場町の新福井、中洲の松本などで、中でも相生は三井さんのお屋敷跡ということでお庭が見事でございました。うるさい女将さんで有名なのは浜町の登代田、つたやなどでございました。
料理屋では、浜町の岡田、矢の倉の福井楼などで、岡田の女将さんはお世辞がいいので向島の入金の女将さんと好一対で、2人揃えて世辞金と言われておりました。その上に岡田の女将さんは芸熱心な人で、「芸者は芸が大切だよ」ということで子供会というものをこしらえて下すって、若い子に月1円づつ積立てさせて、それに自分が足して、その上に自腹で、お客様にお弁当を出してくれました。お客様もお弁当まで貰ってはタダと言うわけにも行かないので御祝儀を下さるということで、金を運営して下さいました。
これが現在の紅会の前身でございます。
今と違いまして、その頃は喫茶店なぞというものはございませんで、お汁粉屋へ行くのが何よりの楽しみで、当時は住吉町のへっつい河岸に甘泉堂というお汁粉屋がありまして、ここがお稽古がえりの芸者の溜まりでございました。このへっつい河岸というのは名ばかりで川は埋められておりました。
明治橋の架かっている川からT字型に住吉町の裏を通って現在の人形町通りで堀留になっていたのだそうでただ今でも末広神社というお稲荷さまのある道でございます。
(東<ひがし>孝の思い出)=岸井良衛「女芸者の時代」から。
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