「人形町見番」が移転
70年余、花柳界を支える

 3日、人形町の見番で葬儀が営まれた。戦前、戦後、伝統ある芳町で芸道一筋に精進し、三味線・唄・鼓の名手として知られた「しのぶ」姐さん(本名・平岡きよ子)が3月31日に永眠。88歳だった。葬儀委員長を地元選出の区議、石田英朗氏がつとめた。花柳界の育ての親でもある明治座の三田政吉会長も列席して盛儀だった。
 ところで葬儀の行なわれた「見番」が近く移転することになった。場所は「浜田家」隣の大門通り側のビル。
 今の見番(人形町2−22)は昭和3年からの古い歴史を有する。それまでは、大正4年ごろまでは住吉町4番地(現在の人形町2丁目六番地)にあって、さらに同5年ごろには現在の「喜寿司」の前に移っている。
 現在の場所に移ったころの見番は新屋敷といわれた。戦後の芳町は、当時の明治座社長、新田新作氏の協力を得て復興し、見番は檜の2階建てに生まれかわり、芸妓組合も復活。日本橋あげての復興祭には芳町芸者が手古舞で繰り出した。
 昭和3年の芸者屋は278軒、芸者629人、お酌84人、幇間4人、お出先150軒(柳橋との共同出先は含まれず)昭和23年には、芸者屋177軒、芸者278人、幇間1人、お出先121軒。さらに戦後のピークといわれる昭和30年には、芸者屋187軒、芸者307人、お出先146軒となる。
 下町情緒の町なみはこうした花柳界の存在があって豊かに育まれてきた。見番はその象徴でもあった。
 中央区は江戸の昔から商業発祥地として下町元祖にふさわしい花柳界を多くかかえていた。芸者のいた地名をあげると芳町、中洲、矢の倉浜町、茅場町、霊岸島、日本橋、中橋広小路、薬研堀、橘町、柳橋、築地、木挽町、新富、新橋(銀座今春)などで少くとも戦前まで花柳界として名が通っていた。
 花柳界が繁盛するということは昔の中央区にはそれだけ裕福な人が多く住んでいたということでもある。
 底地買いなどという嫌な言葉が流行ってのち、路地の小料理屋さんが消えた。
 跡地には見上げるほどのマンションが出来て、すっかり町並が変わり、そして芳町見番も移転する…。
 (『にほんばし人形町』の「芳町花街」を参考にした)

川上音次郎と貞奴

 明治32年4月 オッペケペー節で自由民権を歌った川上音次郎一座が渡米。この一座に芳町の芸者の奴(やっこ)も同行。34年1月に帰国。この旅行中に女優貞奴が誕生。
 貞は本名、奴は芸者の時の名で、アメリカにいたときに付いた名という。日本では明治36年2月に明治座でデビュー。貞奴は昭和20年12月7日死亡。78歳。


恒例「紅会」の発足

 その頃(日露戦争から明治末年)のお出先さんで、いいところというと、待合で芳町の百尺、浜町の金竜亭、弥生、相生、茅場町の新福井、中洲の松本などで、中でも相生は三井さんのお屋敷跡ということでお庭が見事でございました。うるさい女将さんで有名なのは浜町の登代田、つたやなどでございました。
 料理屋では、浜町の岡田、矢の倉の福井楼などで、岡田の女将さんはお世辞がいいので向島の入金の女将さんと好一対で、2人揃えて世辞金と言われておりました。その上に岡田の女将さんは芸熱心な人で、「芸者は芸が大切だよ」ということで子供会というものをこしらえて下すって、若い子に月1円づつ積立てさせて、それに自分が足して、その上に自腹で、お客様にお弁当を出してくれました。お客様もお弁当まで貰ってはタダと言うわけにも行かないので御祝儀を下さるということで、金を運営して下さいました。
 これが現在の紅会の前身でございます。
 今と違いまして、その頃は喫茶店なぞというものはございませんで、お汁粉屋へ行くのが何よりの楽しみで、当時は住吉町のへっつい河岸に甘泉堂というお汁粉屋がありまして、ここがお稽古がえりの芸者の溜まりでございました。このへっつい河岸というのは名ばかりで川は埋められておりました。
 明治橋の架かっている川からT字型に住吉町の裏を通って現在の人形町通りで堀留になっていたのだそうでただ今でも末広神社というお稲荷さまのある道でございます。
 (東<ひがし>孝の思い出)=岸井良衛「女芸者の時代」から。