築地市場業者の支援を 10万6千32の「意志」 臼田 哲男

 「築地市場移転断固反対」を訴え、10万6千32名の署名を集めてから4年が過ぎた。中央区は東京都に「5つの疑問」(後に7つ)を提示。しかし、十分な回答が得られず、豊洲新市場構想は具体化する。区が提示した第1の疑問は「移転先の確保」は、「豊洲」と示されたが、「どのように」は留保されたまま。
 5つの疑問は、「移転先の確保」、「現市場跡地の処遇」、「新市場への交通」、「場外市場への対処」、「現市場整備の対策」であり、「財源」と「豊洲用地の土壌汚染対策」が加えられた。用地について都は、地権者・東京ガスと合意とするが、条件等詳細は開示されない。
 建築基準法・第51条には「都市計画区域内においては、卸売市場、火葬場又はと畜場、汚物処理場、ごみ焼却場その他の処理施設の用途に供する建築物は、都市計画においてその敷地が決定しているものでなければ、新築し、または建築しては成らない」とある。
 豊洲新市場建設には都市計画決定が必要であり、決定には「公聴会・説明会の開催等による住民の意思反映」を求め「公告及び案の縦覧」、「意見書の提出」を経て、「氏区町村都市計画審議会付議」という手続きを踏む。
 区の疑問の1つ「築地市場の跡地の処遇」についても、都市計画決定が必要となろう。中央区の「意志」が問われる。


 「古来、すぐれた都市計画に匿名の例はなく、かならず主人公がいて1つの意志がある。(……)透明な主張にも、歴史の光に透かしてみると、(……)意志が隠されていたように、あちらにもよくこちらにもよい恵比寿顔の計画が都市の歩みを変えたことなど一度もない」(藤森照信『明治の東京計画』岩波書店)。
 築地市場を廃止し、豊洲新市場建設を誘導した「意志」を「今さら」詮索するつもりはない。だが、都としては「中央卸売市場」の1部局の「築地市場」を「豊洲市場」に変えるだけが、正しくは、築地市場は「移転」ではなく、「廃止」される。


 「日本橋魚市場の移転問題は、維新政府による東京都市計画の一環」(岡本信男・木戸憲成『日本橋魚市場の歴史』水産社)であり、「明確なかたちとなった出てくるのは(……)内務省から出された『市区改正条例』によってである」(同前)。
 近代都市計画の原点といわれる「市区改正条例」の公布は明治21(1888)年8月16日。この「市区改正条例」については前掲の『明治の東京計画』に詳しい。同書は「明治の東京計画」のさまざまな「意志」を詳細に解明している。その一部は「明治の中央区計画」に他ならない。


 藤森は「日本橋魚市場」移転について「市場の件も、東照宮公卿の充可(いんか)のまま旧株仲間の結束も固く既存権益を守る魚河岸に対し、なんとか改革のメスを入れたいのは自分たち新興勢力に他ならない」(括弧内ルビ)と、新興企業家・渋沢栄一の「意志」を明らかにする。渋沢は「田園調布」の生みの親、石川島造船所(現・石川島播磨重工)の出資者。渋沢は「市区改正審査会」に参画、「築港と商業都市」を東京の未来像に掲げた立役者でもある。
 「由利公正は木挽町3丁目築地川端に住まい、川向うの本願寺脇には大隈重信が5000坪の屋敷を構えている。築地梁山泊とよばれる大隈邸では、井上馨、渋沢栄一という大蔵省配下の面々をはじめ、伊藤博文、五代友厚、前島密などの開明派急先鋒があぐらを組んで談論風発し、鉄道はじめ電信、灯台、度量衡改正といった新制度を打ち上げては次々と手をつけていた」(藤森、前掲書)。
 明治5(1872)年、一帯は火災で焼失。「彼らはこの地を文明開化の街として再建することを決意する」(藤森、同)。銀座煉瓦街建設のはじまりであり、「明治の東京計画」のはじまりでもある。
 由利は「財政家」とされ、「7部積金」、築港や築島(埋立事業)などの都市計画との係わりは深い。
 「日本橋(.......)の如き、全府内中央枢要の土地を横戴し、(.......)商業上頗る貴重な場所を充填し、且開市中往来を遮断せざるを得ざるが故に、(.......)現今の魚市場を廃止し(.......)」(市区改正審議会意見書)。
 意見書では新市場の衛生設備にも言及、日本橋が「全府内中央枢要の土地」であり「商業上頗る貴重な場所」であることを述べ、「市区改正」の要地であり、「日本橋魚市場」「廃止」の理由を示している。
 「明治20年を堺に、近代産業育成の努力は実を結び、新しい経済が軌道の上を走りはじめる。この経済が、それまで中心にあった問屋商業を後退させ、一方、量産を旨とする近代工業を前進させたことはよく知られている(.......)商品経済という新しい波の到来は、小売り商店街銀座の隆盛の必要条件を説明するが、十分条件までは語らない。なぜなら、(.......)江戸来の小売りの街としても名高い日本橋地区は往年の輝きを失い、ひとり銀座のみ急速に浮上したからである」(藤森、前掲書)。
 日本橋周辺の「都市再生」、「活性化」は急務であった。「都市再生」、再開発の種地を必要としていた。「日本橋魚市場」は、この種地として格好の要地であった。渋沢の「意志」でもある。兜町、坂本町、南茅場町一体に次々と新興企業が居を構え「ビジネス街」を形成したのも「市区改正」の成せる業であった。「市区改正」はたんなる「都市整備」ではなく、「近代産業」、「新興企業」の振興でもあった。
 「魚市場」にも近代化が求められ、「日本橋魚市場」の移転もまた、国家近代化の壮大な大綱の中で胎動をはじめてはいた。
 隅田川河口では、港湾整備にともなう浚渫により、次々と埋立が進み、「富国強兵」・「殖産興業」の時代の流れを追い風に、石川島造船所を中枢に一大近代重工業地帯を形成する。「築港(港湾整備)・商業都市」は「明治の東京計画」への渋沢たちの強い「意志」であった。


 「明治の東京計画」で試みられた「日本橋魚市場」の移転は、結局は関東大震災の後藤新平の「意志」、「帝都復興計画」の施行でようやく実施。冷蔵庫など近代市場施設を備えた「築地市場」の創設である。
 「中央市場法の適用に伴い、昭和10(1935)年に、従来の問屋は卸業者と仲卸業者とに再構成された。卸売業者に資本参加したのは少数で、大多数がもとの屋号のまま仲卸業者となった」(前掲『日本橋魚市場の歴史』)。まさに「移転」に他ならない。東照宮公郷の充可を離れ、「都民の台所」のはじまりでもあった。
 昭和15(1940)年、築地と対岸の「2号地(現・勝どき1〜4丁目)」の間に勝鬨橋が架橋。製作は渋沢が創立に携わった石川島造船所。「2号地」や「1号地(現・月島)」は、東京湾の造船等重工業地帯の「島」であり、重工業関連事業従事者は、「職住近接」の居住形態を成していた。勝鬨橋架橋で「築地」への陸路が開け、「2号地」や「1号地」は「築地市場」とも深く係わるようになる。築地を経て、銀座等都心は至近、一体は市場関係者も交え「職住近接」・「都心居住」が進む。
 昭和37(1962)年、「3号地(現・勝どき5・6丁目)」先を埋立築造、「築地市場」との関係の深い漁業基地「豊海町」が完成。埠頭、冷凍倉庫など新たな施設と水産関連企業の社宅や寮を整備。市場関係者により住宅団地「東卸豊海住宅」が建設され、「職住近接」・「都心居住」はさらに顕著になった。
 「築地市場」就業者の住宅はもとより、「場外市場」をはじめ、関連事業所や冷凍倉庫、加工場は築地、勝どき、豊海町、月島などの周辺の「丁目」に散在する。


 「築地市場」は60余年の歴史の中で、周辺と一体となり培われてきた。流通の変革も経験した。豊海町・漁業基地完成の年には「引き込み線」による貨物輸送が廃止。冷凍保存技術も変わった。
 しかし、籠を手に、「築地」に通う買出人の姿は変わらない。「セリ」の風景同様、買出人で賑わう仲卸店舗とせわしなく荷を移動する風景が「築地」の風景でもある。「セリ」、品揃えし、買出人の需要に応じてさまざまに「分荷」し、荷を手渡す作業は変わらない。この作業は市場内部にとどまらない。周辺関連施設にも及ぶ。「築地市場」で培われた業務体系でもある。
 今日、売るものを朝、必要なだけ仕入れる。鮮度を重視し、日々の需給を繁栄した「時価」の価格、時々の品揃え。「築地市場」の買出人は、「町場」の個人経営の寿司屋や飲食店・食堂でもある。仲卸店舗数はおよそ900。小さな個人事業者も少なくない。商いは小さい、しかしそのつき合いが「築地」の歴史だとも「蓄積」だともいう。
 食品の偽装表示や多くの食品不祥事は食材を他の商品と同様に処理する業務体系から発生する。大量消費社会の警告でもある。


 東京都の「中央卸売市場」は本庁に移転した。「築地市場」は遺棄されてしまったのだろうか。卸売市場9割の取扱量が目標以下、会計検査院が「施設整備、過大」と指摘した(「朝日新聞」)。「築地市場」は本当に「狭い」のだろうか。
 「築地市場」から勝どき・晴海を経て豊洲に延伸される「環状2号線」はどうなのか。一部では地下通過が提示された勝どき5丁目・6丁目、あるいは勝どき3・4丁目で道路の地上化が噂される。都の財源不足が地上化の理由だと言う。これも都市計画の変更が必要になる。地元・勝どきでは、「環状2号線地上化断固反対」は居住者の総意ともなろう。新月島川水域上部の通過も噂されるが、日本橋川や昭和通りの高架道路の撤去を掲げる区としても受け入れられない。
 中央区が問う「現市場整備対策」は十分か。


 11月2日、「築地市場」の市場まつりは13万人の人出で賑わった。「場外市場への対処」はやはり、「卸売市場」あってのことである。
 「築地市場」の魅力を再認識するべきであろう。あえて「築地ブランド」とは言わない。「築地市場」の魅力は、市場で働く人々によってつくりだされたものだからだ。築地市場の魅力は、そこで取り扱われる食材にある。しかし、それはまた、市場で働く人々によって「厳選」された食材であるからだ。
 「築地市場」では来年5月に恒例の「店舗替」がある。経済不況の折り、仲卸店舗にとって重い負担だとの声もある。豊洲新市場への移転に不況打開の夢を託す店舗も少なくないという。しかし、3分の1は移転の費用負担に対応不能で店舗をたたむともいわれる。事業者にとっては、移転ではなく「廃止」である。
 中央区の問い、「現市場整備対策」に、市場事業者の支援は欠かせない。「店舗替」買はもとより、衛生管理や市場施設の整備とともに、市場事業者の支援対策を真剣に講じる必要は急務でもあろう。
 中央区にとって、「築地市場」が地域と密接に係わる重要な存在であることは前述した。「築地市場」は中央区の最大の地場産業である。市場業務に携わる事業者は地域の貴重な「蓄積」でもあり、財産でもある。「地場産業」、築地市場事業者への支援は中央区・東京都の責務でもある。
 それが10万6千32人の「意志」である。
 国家近代化の商都建設を「市区改正」に託した渋沢栄一の「意志」、震災復興を「帝都復興の議」で主導した後藤新平の「意志」。「日本橋魚市場」の移転は、こうした強い意志によって実現した。
 「築地市場」廃止の「匿名」を装う「意志」に関心はない。しかし、署名し「築地市場存続」を願う10万6千32人、それぞの「意志」があることを忘れてはならない。
(勝どき1-1-1-623 臼田編集室、まちづくり地域支援室)
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