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伝統的食文化の行方を、築地魚河岸の現場からお伝えします 魚河岸発!
今月のテーマ:マグロ物語(其の二)
ワタクシ、河岸のマグロ屋でありながら、やれマグロは下魚だ、縁起が悪いだ、下賎(げせん)な者しか食べなかった、などと散々に書きつらねてしまい、これで良いのかと自己矛盾におちいったものですが、この点を深く考え抜いた末、「ま、いいや」という結論に達しました。たいそう評価の低かったマグロもやがて人気を集め今日の地位にいたります。グルメの基準なんていい加減なものだよね、今日はそんなお話をいたしましょう。

“天保マグロ伝”

 マグロというものは、本来遠洋で捕れるものなんですな。ところが、どうした潮流の加減かはたまた異常気象か、これが近海でたくさん捕れるという事件が勃発しました。天保三年(1832)の出来事でございます。何と日に一万本も水揚げされたと申しますから大変なものですが、たくさん捕れるから広まるということにもなりまして、江戸市中にマグロがあふれ、それまでは長屋の熊さん八つあんがこっそりと食べておりましたマグロを大っぴらに食べるというご時世になったのでございます。
 日本橋魚河岸では中くらいのマグロが約二百文という超安値で取引され、二十四文の切り身で二、三人が食べても残るというくらいだったと申します。蕎麦が二・八の十六文でございましたから、蕎麦代にちょっと銭を足せば、家族が腹一杯食べられるという具合でありました。実にリーズナブルですな。
 江戸市民はマグロのおいしさに舌鼓を打ちましたが、でもあまりに量が多く、しかも商売にならないほどの安値ときてはどうにも消費しきれません。それで良い部分だけ切り身にして、ほかは肥料にしてしまう。それでも到底使いきれずに捨ててしまったと申しますから、いかにも勿体ないお話ではございませんか。

“彩りあざやかマグロのにぎり”

 いつの世にも目先の利く者はおるものでございます。
この大量のマグロの良い部分だけ取ってきて、にぎり寿司にしてしまおう、と思いたった江戸っ子がおるんですね。
 ところで余談ではございますが、寿司というものは当初、鮓と申しまして、飯で発酵させて酸っぱくした魚を食べるという保存食でございました。しかし、それでは時間がかかり過ぎるから酢飯にしてしまえ、ということで一夜鮓(早鮓)が現れました。さらに、いっそ飯ごとにぎってその場で食べさせようという発想からにぎり寿司の登場と相成るのであります。そこで当初にぎった寿司種はコハダであるとかアユといったものでありました。
 いくら新奇なにぎり寿司といえどもマグロをのせるなど、まるで突拍子もない相談であったわけですが、ところがこのマグロ寿司、白い飯の上に赤い魚というコントラストが実にキレイ。こいつあイキだと飛ぶように売れました。それで下魚もいっきに魚振を上げる、と思いきや、これが残念ながら不人気だったのですね。なにしろ大変に不味かった。
 にぎり寿司は甘酢で魚を洗って出します。ところがマグロはそれが出来ません。酢に漬けたら表面が真っ白になり、肌はザラつく。これでは見た目も悪くなります。仕方なくそのまま乗せてみたら旨くない。当たり前ですな。
 その時、にぎり寿司の創始者といわれる花屋与兵衛という人が機転を利かせまして、最近、野田で盛んに生産されるようになった醤油にマグロを漬けてみたのでございます。するとこれがとてもよく合いました。保存にもなるし、これこそマグロ寿司の作り方だ!
この方法をヅケといいまして、赤身のマグロの代名詞になっております。ヅケの発明によって、ついにマグロは寿司ネタの花形として認知されるにいたったわけでございます。

“鉢巻マグロの正体”

 さて、江戸時代に鉢巻マグロというものがございました。と申しましても、何も鉢巻をしたマグロが泳いでいた訳でも、マグロの頭に鉢巻をつけさせて食膳にデーンと置いたのでもありません。
鉢巻を巻いてシビ食う田舎者
 こういうふうに田舎者を揶揄するのに、お前ンところは鉢巻をしなければシビを食った気のしないところだ、などと馬鹿にしたのでございます。なぜマグロを食べるのに田舎の人は鉢巻を巻かなければならなかったか。それは江戸時代、漁獲されたマグロはまず日本橋魚河岸へ集められます。それを各地に輸送いたしますが、現在とちがい冷蔵庫もない時代のことでマグロがすぐに真っ黒になってしまいます。この黒い部分に虫がたかり肉を食みます。その虫が肉を食らいながら死んんで黒くシミついてしまいます。さてこの黒いのは色の変った肉質なのか死んだ虫なのか分からない。そんな鮮度の落ちたマグロを食べると中毒を起こし頭痛がしてまいります。それで、田舎の人はあらかじめ鉢巻をしてマグロを食べねばならぬという、まあ本当にそのようなものを食べたかは分かりませんが、マグロがそんな悪口に使われた時代でございました。

“トロは捨ててしまう”

  マグロ寿司は大変に流行いたしまして、明治時代にはマグロの寿司でなくてはイキじゃないとまで言われ、マグロも長年の受難時代を経てようやく栄光をつかんだわけです。
しかし、その頃のマグロ寿司にはトロというものはありませんでした。そもそもトロなんてつい最近になるまでは捨てられていた、などと申し上げれば皆さんはびっくりすることでありましょう。何しろトロは大人気の高級食材ですございますから。しかしこれは本当の話。戦前まではマグロといえば赤身のことをいったのでございます。昔の日本人は脂ぎらいでお刺身もサッパリしたものを好みましたから、脂の乗ったトロを食べてみようという発想すらなかったのでしょう。
  はじめてトロの美味しさに気づいたのは、昭和初期の学生さんだとも言われております。苦学生の彼らは安価なトロを喜んで食べました。それからもちろんマグロ問屋の小僧さんたちも、まかないご飯でお腹一杯にしていたそうです。当時トロはそうした一部の人だけが食するものでございました。
  それが戦後、日本人の食生活が急速に洋風化し、肉食に慣れた人々の味覚には口の中でとろけるトロの美味しさが何と新鮮に感じたことでありましょう。皆トロに魅せられてしまいました。かくしてトロと赤身の人気はいつのまにか逆転したのでございます。

“流行りすたりは世の常なりき”

  結局は食べ物にも流行がございますから、どのようなものに価値を置くかは、その時々でちがうというお話ですな。もともと食材として見向きもされなかったマグロ。それが今では高級食材てなわけで、刺身は日本料理の最高傑作などといわれて、マグロに精魂込める料理人が見得を切るご時世となれば、マグロで生業をたてるワタクシにはとてもありがたいことでもございます。
  でもまあ300年間も不遇の時代を過ごしての現在があるのですから、昨今のマグロ人気もそう悪いものではないでしょう。ようやく人気者となったマグロも、やがて不人気の波をかぶる日もくるにちがいありません。でもそんなことになっても心配無用です。また300年ほどすれば勢力を盛り返すでしょうからな。
  流行りすたりは世の常なりき、空しさは営々と続く人の世にこそあり、といったところでございましょうか。


生田與克―いくたよしかつ
1962年東京月島に生れる。
築地マグロ仲卸「鈴与」の三代目として築地市場で水産物を扱うなかで自然の恵みの尊さ、日本特有の魚食文化の奥深さを学ぶ。
現在、講演会などを通じて魚食の普及に努めるほか、ホームページ「魚河岸野郎」を開設。魚河岸の歴史と食文化を伝える“語り部”として精力的に活動している。

「築地の魚河岸野郎」
http://www.uogashiyarou.co.jp/


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2005年3月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  

 

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