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伝統的食文化の行方を、築地魚河岸の現場からお伝えします 魚河岸発!
今月のテーマ:「ちゃぶ台」のある団らん

  皆さんは「ちゃぶ台」というものをご存知でしょうか。畳用のテーブルとでも言えば良いでしょうかね。木製の小ぶりな丸っこいのが主流で、そう、折りたためるのが特徴。星一徹のひっくり返すやつと言えばお分かりでしょう。え、知らない? うーん…

 まあ、今回はですね、魚のお話からは外れますが、一昔前の食事の基本的デバイスであったところの「ちゃぶ台」が日本の食生活のスタイルにいかに変革をもたらしたか、家族の幸せをどれほど演出したか、そして、失われたものがいかほど大きいかということについて語りこみたいと思います。星一徹についてもお話しましょうね。

“ 「ちゃぶ台」を囲んで ”

イラスト で、この「ちゃぶ台」ですが、昔はこいつを囲んで家族で食事をするのが一般的でした。オカズといったって、大皿の煮物かなんかを皆でつつく。あるいは小魚の焼き物とか、お新香に味噌汁。そんな質素なものですが、家族で顔を合わせて食べるとどんなものでも美味しかった。「今日はこんなことがあったよ」語らいながらの食事には楽しさがあふれてましたね。

 そこへ行くと現代は、メニューはちょっぴり豪華になったけれど、皆バラバラで取る食事はどうも味気ないものです。今の若い人たちは父親といっしょに御飯を食べるなんてちょっとイヤがるかな。子どもの頃から家族団らんの習慣がないから、今さら食卓を囲むなんて、むしろ不自然に感じるのかもしれません。

 最近では昭和レトロがブームで、丸くて折りたためる“キュート”な「ちゃぶ台」の復刻が人気らしく、結構売れるそうですよ。でも、現代の家庭に「ちゃぶ台」だけがちょこんと鎮座ましましても、果たしてそこに家族が戻ってくるでしょうか。シャケの放流よりもむずかしいかしれません。レトロアイテムとしてのちゃぶ台はお金で買い戻すことは出来るけれど、そこにあった団らんの空気というものは、もはや望むことはできないかもしれません。

“明治中期までは銘々膳(めいめいぜん)”

 昔、NHKの連続ドラマ「おしん」で、おしんが「大根めし」を食べるシーンがありましたね。さて、そのとき、おしんが使っていたのはどういうお膳だったでしょう。何か小さな一人用のお膳でちまちま食べていませんでしたか。あの膳を「箱膳(はこぜん)」といいまして、台の部分がフタになっており、それを開けると箸や茶碗を収納できるという便利な代物です。

 昔は一人ずつが別々の銘々膳で食事を取りました。別々で好きに食べられて気楽で良い? とんでもありません。みんな揃って食べるけれど、それぞれが身分や立場によって自分の位置で膳をいただく、といういわば封建社会のスタイルなんです。

 封建社会といっても、それがまるで暗黒時代であったかどうかは分かりませんが、ただ、主人とは食卓を共にすることはできなかったのです。有史以来、明治時代の中頃までずっとそうだったんです。目下の者が虐げられていた、というよりも、むしろ主人や父親と和気あいあいと食事を取るという発想がなかったわけです。

“ちゃぶ台は中国から来た?”

 明治維新というのはあらゆる価値観が転換した時代でした。

 文明開化と呼ばれ、いかにも世の中が近代化したようにいわれましたし、たとえば島崎藤村の小説「夜明け前」に描かれたように、それまでの“暗黒”な封建時代からの夜明けという見方もありましたが、最近ではいやそうではない、明治こそ諸悪の根源だ。江戸のなかにこそエコロジーで人間らしい生活があったという人も多く、百年を経てもいまだその歴史判断はつきかねますが、いずれにしろ社会ががらっと変わってしまったのが慶応から明治へと至る十数年間でした。

 なかでも、これは良い方に変わったといえるのが食事のスタイルだったのではないかと思います。すでに述べましたように、それまでは家長と共に食事をするスタイルというものがありませんでした。主人を中心にしてそれぞれが「箱膳」で静かに食べる食事が一般的だったわけです。

 でも食事の西洋化は、家族がひとつの食卓に向かい合って食べるというかたちをもちこむこととなりました。何しろ外国の作法というのは良いということになり、さっそくテーブルというものを使おうと思うのですが、和室の畳にテーブルは置けません。そこで中国で使われている卓袱(ちゃぶ)という、これは四つの脚を持ったテーブルかけのある台のことをいうそうですが、これをもとに脚をぐっと短くしたものを作り出したのが「ちゃぶ台」というものなんです。

 したがって「ちゃぶ台」というのは食事の西洋化のなかで日本人が作り出した和洋折衷、あるいは和中折衷のものといえます。

“威厳の行方”

イラスト ちゃぶ台ができて何が変わったのかというと、食事に団らんというものが生まれたということ。食事が食べることと同時にコミュニケーションとしての場になったということ。さらに家族でいっしょに箸をつつく食べ物が出てきたこと。それまでイカモノといわれ身分の卑しい「以下の者」が食べるとされていた「鍋物」が食卓に載るようになったということですね。

 「鍋物」については別の機会に申し上げますが、この団らん、コミュニケーションの発生というのはそれまで家の中では絶対的な権力を持っていた父親が、家族と同じ目線に下りてきたということに他なりません。また、父親の方でも家族と楽しく食事を取るというのは好ましいことですから、あたらしい食事スタイルは何ら抵抗感もなく庶民に浸透していったのです。

 でも、父親の権力、というか威厳が全くなくなったわけではありません。むしろその後もずっと、ちゃぶ台と共に父権というものがあったように思えます。

 たとえば父親の座る場所。これは上座と決まってますね。するとそこには、朝なら新聞が置いてある。ここに父親が存在しています。昭和30年代以降ならば、テレビのチャンネル権というのは父親のものでしたでしょう。「巨人の星」の星一徹が「バカものーッ」と言って「ちゃぶ台」をひっくり返すとき、それはまさに父権の発動に相違ありません。

 大黒柱というものがいるべき位置にいて、そこではじめて団らんというものが出来上がっていました。ですから、食卓から父親の場所がなくなったとき、「ちゃぶ台」もまた家庭から消えていったのです。

 日本の家族の食事というのは、“オヤジ”をコアとして出来上がっていたということです。“オヤジ”を手厚く呼び戻さない限り、たとえ「ちゃぶ台」があったとしても、団らんの食事は戻ってきはしないでしょう。

 

生田與克―いくたよしかつ
1962年東京月島に生れる。
築地マグロ仲卸「鈴与」の三代目として築地市場で水産物を扱うなかで自然の恵みの尊さ、日本特有の魚食文化の奥深さを学ぶ。
現在、講演会などを通じて魚食の普及に努めるほか、ホームページ「魚河岸野郎」を開設。魚河岸の歴史と食文化を伝える“語り部”として精力的に活動している。

「築地の魚河岸野郎」
http://www.uogashiyarou.co.jp/


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2005年8月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  

 

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