このコラムは書籍『私の芸能生活六十五年』を、数回に分けて掲載いたします。
語り: 藤間 小紫鶴  聞き書き: 笠原 陽子

 

■お祖父ちゃんの愛称は「チャーチル」

 

 この、おじいちゃんのことはね、結構、良く憶えているわ。あたしが十五歳まで生きていたからね。「チャーチル、チャーチル」って呼ばれてたの。
 イギリスの、チャーチル首相に良く似ていたのよ。純粋な日本人なのにさ、百八十㎝以上も背丈があって体格はいいしね。
 「あっ、チャーチルが来た」なんて呼ばれてた。
 何しろ、おじいちゃんのチャーチルは、漆器店のきむら屋さんが、どうしても、うちのこの場所が、欲しいから売ってくれって、 何度も来るから、
 「よっしゃ」と譲った人なのよ。
 「近所でどこか、空いているところはないかい」って探してさ。
 それで、あたし達は近くの、築地小学校の裏手角に引っ越したのよ。今の平成通り、うどん屋さんのところよ。うちの横の道路から、右手を見ると 本願寺さんの真正面が見えるの。
 ここに移り住んだのは、ちょうど、あたしが小学生になるころだったわ。
 ここでは、もっぱら父と母が、使用人を使って「割烹・松岡」っていう料理屋をやっていたの。和食、中華料理の他に洋食もやっていたわね。  
 従業員も、住み込みで十数名いたし、二階には大広間もあって、芸者さんを呼んで宴会もしていたわよ。築地にも芸者さんの置屋さんがあったのよ。新橋芸者さんのね。
 チャーチルは、親分肌だったから、魚河岸のことや、お相撲さんの後援会(双葉山の後援会会長)や、政治的な関わりなど、それなりの活躍をしていたみたい。
 お妾さんもいたからさ、おばあちゃんとの仲は良くなかったけど、うちでは、火鉢の前にでんと構えていて本当に貫禄あるおじいちゃんだったわ。  父もね、顔はハーフみたいに目鼻立ちがハッキリしていて外人みたいだった。二回も戦地に行ってね。
 あたしが、ものごころつく頃、三歳の時に戦地から帰って来たんだけど、全然なつかなかったそうよ。何せ、外人みたいだから。
 三笠宮様は、父の戦友だったから、親しくさせて頂いたのね。うちの家族と一緒に写した写真もあるの。
【写真…チャーチルと呼ばれたお祖父ちゃんと父母と弟たちと…】

 

   え、母?
 母はね、日本人そのものの顔で、なかなかの美人だったのよ。
亀戸出身でね。  しっかり者で、嫁入り前には金融関係の仕事もしていたから、計算は出来るしさ、昔の女性にしてはスポーツウーマンで、キビキビしていたのね。今で言えば出来る女だったのよ。
 だから、チャーチルに気に入られていたし、頼りにされていたのね。勿論、父にも、頼りにされていたけどさ。
 最近、母の日記帳が出て来て、ひそやかに読んでるけど、凄く面白いの。
 父との結婚当時からの日記で「久しぶりに書く」とあったから、時々に日記をつけていたのね。
 見合い当時の様子や、初デートで長谷川一夫の映画「雪之丞変化」を見にいったことや、新婚旅行に行った時のエピソードなんかが克明に描いてあるのよ。筆マメだったのに驚いちゃった。
 お嫁に行く時にね、和子って妹も一緒に連れて行ったんですって。昔はね、きょうだいの人数も多かったから、そんなケースは随分あって、全然、めずらしいことではなかったみたいよ。
 なにしろ母は、きょうだいの一番上で九番目の一番下の妹は、 あたしと一歳しか、歳が違わないんだから。
 日記にね、小姑に、いじめられた時に、どれほど心強くこの妹に、助けられたかってこととか、あたしが、父に全然なつかなくって困ったことなんかも書いてあった。
 商売は、父と母の二人三脚で、大繁盛していたから、普段、忙しすぎて、子供のことなんか、何も構わなかったわ。
 その母が、どういう訳か、学校のことだけは変に熱心だったの。教育ママでもないのに、父兄会なんかで、いつも先頭に立って仕切っていたものね。
【写真…長谷川一夫主演「雪之丞変化」より】

 

つづく…
(次回 『楽しかった本願寺さんの盆踊り』 は4月17日にアップします。お楽しみに)

 

  
 
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