車が氾濫し、歩行者よりも優先される時代に一石を投じたのは、1970(昭和45)年から始まった歩行者天国でした。 銀座一丁目から八丁目まで中央通りの車の通行をいっせいに止め、休日の昼さがりに銀座の散策を楽しんでもらおうという画期的なイベントでした。美濃部都知事の肝いりで、警察と銀座通連合会が協力体制をとりました。われわれにとっては休日返上となりましたが、全国各地の先鞭となり、四半世紀たった現在もこの催しは続けられています。 また、大銀座祭りは第32回(1999年)をもって一時中断され、2001年から新たな銀座あげての祭り「銀座アキュイユ」が毎年10月に開催されています。アキュイユとはフランス語のaccueillir(歓迎する、もてなすの意)から名付けられたもので、「銀座にようこそ」という心を込めたイベントです。また、歩行者天国とは別に、2003年5月には石原都知事の推奨で、東京都主催の「ヘブンアーティストIN GINZA」が銀座の大通りを通行止めにして開かれました。
 いつの時代でも、何か新しいことを考え出し、銀座を訪れる人たちに最大の「もてなし」を提供するのが、銀座の心意気かもしれませんね。


 古い話は、私の所属する銀座六丁目町会で発行しました「銀座六丁目小史」(昭和58年発行)に書かれているので、そこからお話します。
 明治33年、東京府は府例で各町会を単位とする衛生組合の設立を促します。この衛生組合と言うのは、前後して公布された「汚物掃除法」の実施をスムースに行うための地域組織で、銀座では大正時代の初めごろまでには一丁目から四丁目まで組織されていました。今もむかしもゴミ問題は大きな課題のようです。この衛生組合が大正8年に銀座町会と改称され、昭和5年銀座八丁のすべてに町会が出来あがり、現在は全銀座に23の町会があります。
 また、通り会は商店連合で、その前身は大正9年、銀座の柳を引き抜いてポプラに植え替える話がもちあがった時に柳撤去に反対して結成された京新連合会といわれています。まもなく京新連合会は銀座通連合会に名称を変更します。さらに昭和25年には銀座通連合会と銀座中央通り会(晴海通り)が合併し、現在の銀座通連合会が設立され、さらに西銀座、並木通り、すずらん通り、あづま通り、三原通りなど、18の通り会が結成されてきました。

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                                                          2003年8月掲載記事
                                                ※内容は、掲載当時のものとなります