明治36年当時の銀座煉瓦路
 昭和20年、度重なる空襲で六丁目の一部と七丁目を除いてすべて灰塵と帰した銀座ですが、その復興はめざましいもので、銀座魂といいますか、明治以来培われた進取の気質と、新天地に活路を見出そうとするエネルギーがあいまって、昭和21年4月には銀座商店連合会のもと復興祭が開催されました。バラックの店舗、あるいは露店に人々が集まり、飲食物、日用品が飛ぶように売れました。占領下で、アメリカ軍のための売店(PX)の繁栄も復興のひとつの足がかりでした。
 戦後大きく変わったことといえば、昭和26年に不衛生と言う理由から露店が全廃されたこと、また24年には三十間掘りが埋め立てられてしまったことです。1951(昭和26)年占領軍が撤収し、銀座に新しい専門店(婦人服や子供服の店、美容院など)が参集し、華やかさを取り戻して行きました。昭和29年には第1回銀座祭りが開かれ、モードコンテストなどが行われました。


 たしかに公共の道路や高速道路の整備、建物のビル化が急速に進行しました。丸の内線、日比谷線、都営浅草線と次々に地下鉄が銀座に乗り入れ、埼玉、千葉、神奈川の近郊に繋がる交通網は、銀座の集客率を増大させました。オリンピックは銀座にかぎらず、戦後日本の経済成長の発端となる一大イベントでした。銀座の商店連合会でも、外国のお客様を十分にもてなせるよう英会話の訓練などをしていました。
 その後の記憶に残る出来事といえば、1968(昭和43)年、明治百年を記念して開催された第1回の大銀座祭り、光のパレードは多くの人々に明るい未来を予感させるものでした。一方で銀座の街から消えて行ったものもあります。同じ年の12月には、銀座通りを60年あまり走り続けた路面電車が交通渋滞の元凶として廃止になり、日々、電車の音を聞きながら暮らしてきたわれわれにとっては、愛惜と郷愁の想いを抱かせるものでした。路面電車の線路と停留所の撤廃で、銀座の歩道は広がりました。振り返って考えてみると、路面電車を道路の中央ではなく、端に走らせていれば、停留所のスペースもとらず、今問題になっている車の不法駐車の防止にもなり、案外上手く機能していたのかもしれません。

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                                                          2003年8月掲載記事
                                                ※内容は、掲載当時のものとなります