大正14年当時の菊水

 祖母は終戦前の昭和19年に亡くなり、店は父の長一に引き継がれました。戦中から戦後しばらく、たばこは統制品となり小売ができず、パイプなど喫煙具の修理を主体に、英語で「repair」の看板を出して連合軍総司令部(GHQ)の将校相手の商売でしたが、昭和21年に再興しました。私が「菊水」に入社した昭和33年は、占領時代が終わり、再び本来のたばこ・喫煙具販売が軌道にのりはじめた頃でした。現在のビルは、1980年頃に隣りのダイアナ靴店との共同ビルで、「銀座にはやはり煉瓦建てだろう」と、あえて煉瓦建てにしました。建築費用は割高でしたが、塗り替えの必要はないし、古くなるほど良い味わいが出てきて気に入っています。いろいろと難しい時代になりましたが、たばこ・喫煙具の専門店としての誇りは失わずに、今後も頑張って行きたいと思っています。


 1612(慶長17)年、駿河から「銀座」銀貨鋳造所が京橋の南側に移され、新両替町一〜四丁目が出来、それが通称「銀座」と呼ばれました。江戸から明治にかけて、商業の中心は日本橋にあり、明治初期に煉瓦街が出来るまでは小商人、職人の居住区でした。当時のメインストリートはみゆき通りで、天皇が皇居から築地の海軍省に行幸する道筋として御幸(みゆき)通りという名称がついたそうです。中央通りは新橋から日本橋に通じる大通りとして、道幅15間(約27m)、当時としては破格な広さでした。この通りを鉄道馬車が走り、明治後期には路面電車が開通し、通り沿いに煉瓦街が軒を並べました。昭和5年には四丁目から新橋までが銀座に組み込まれ、正式な地名としての銀座八丁が成立したのです。
 震災後、魚河岸と青物市場が築地に移り、銀座は発展の道をたどります。大正13年に松坂屋銀座店オープン、土足入場の初店舗として評判を呼びました。大正14年には松屋、さらに昭和5年に三越が進出します。昭和初期は、まだ随所に掘割があり、橋が多く美しい水の町でした。昭和9年には新橋・上野間に地下鉄が開通し、昭和15年に勝どき橋が開通すると、晴海通りが中央通りと交差するメインの大通りとなり、現在の銀座の様相がだいたい出来上がってきます。昭和10年代の銀座は、モダンボーイ、モダンガールの闊歩するファッションの発信地で、キネマやダンスホール、カフェに若い人々が集い青春を謳歌し、夜店が賑わいました。

<<前のページ | 次のページ>>

                                                          2003年8月掲載記事
                                                ※内容は、掲載当時のものとなります