このコラムは書籍『私の芸能生活六十五年』を、数回に分けて掲載いたします。
語り: 藤間 小紫鶴  聞き書き: 笠原 陽子

 

■日舞は六歳の六月六日から

 

 

 お稽古は、五歳の時にね、洋舞の島田舞踊団に入って、日舞は、チャーチルの勧めで、六歳の六月六日から習い始めたの。
 お稽古事の中では踊りが割合に好きだったのね。小さい頃の習い事で、ずっと続けてきたのは、踊りくらいしかないもの。
 踊りは花柳で、今の寿輔先生のお姉さんの花柳やす子先生に手ほどきを受けて、厳しく教えて頂いたの。
 当時、今の寿輔先生は、宝塚などの振り付けを、主にしていらして大変お忙しかったの。
 八歳の時にね、花柳寛(今の寿輔)先生の振り付けの「ほたる狩り」でTV初出演したの。
 これは今の芸能花舞台の走りだったと思うわ。

 花柳に、小学校の六年生までお世話になって、中学受験のために、退会することになったのね。
 まあ、受験もあったけどさ、その頃、何だか踊りも厳しく難しくなってね、面白く無くなりかけていたこともあったのね。
 築地小学校から、中学は川村学園に入って一段落した頃、本願寺さんで、伊志井寛先生のお姉さんの子が、石井流と言うのを、やっているって聞いて、そこに入ることになったの。
 この、踊りの石井美代先生が、とても優しい人だったのが、嬉しくって一生懸命練習に通ったわ。
 そして、十三歳の時に発表会の「将門」で、石井ふく子先生と共演させて頂いたの。


【写真 花柳流で「手習子」十歳のころ】

 

 

■石井ふく子先生に台詞の特訓受ける

 

 

 この時、昭和三十五年に「石井小文美」を襲名することになったのね。
 石井ふく子先生には、踊りながらの台詞も、厳しく教えて頂いたわ。あたしにとって、この台詞の特訓が後々、大変な戦力になるのよ。かなり刺激的でね、すっかり、台詞にはまり込んでしまったの。面白くってね。それ以来、踊りながら台詞のあるものはないかと、求めるようになっていたのね。
 あたしの場合、踊りはともかく、芝居の下積みが無いから、この石井先生の特訓は本当に役に立ったのね。人生の中で一番、飛躍できる、きっかけを作って下さったと、石井先生には感謝しているの。
 それと伊志井寛先生の奥さんの三升のお母さんにも、随分、お世話になったしね。

 この三升のお師匠さんは、まさに先生と言うより「おっしょさん」と呼びたい感じの、本当に素敵なおっしょさんだった。
 小唄を教えて頂いたんだけど、もうね、師匠もそうだけど、お稽古場も、大正時代の新派の中にいるような雰囲気でね。
面倒見のいい、おっしょさんだったわ。
お弟子さんも呉服屋・きしやの大旦那や、井上順さん、高峰秀子さんのお母さんなどいらしてたけど、舞台で会を催すと、大勢の歌舞伎役者さんや女優さんも参集してね。
それはそれは、華やかな舞台が展開されるのよ。お客様も満席で、おっしょさんの人柄を感じさせる素晴らしい舞台だったわ。
川村学園の中学、高校、短大、研究科と9年在籍しながら、踊りのお稽古は欠かさなかったわね。石井流でいろいろな会の踊りにも代表で出させて頂いていたしね。
でもね、踊りの会などに出るには、お金がかかるの。
ほんと、金がかかるのよ。
お金のかからない方法はないかしらんと、考えていたら、台詞もある、東宝歌舞伎や東映歌舞伎に出させて頂くことになったのね。
川村を卒業した頃だから二十歳位になっていたかしら。


【写真:上 石井流で石井ふく子さん(右)と「将門」を踊る十三歳のころ】
【写真:下 三升延師匠(右)と小唄の舞台】

 

 

つづく…
(次回 『山本富士子公演で十年間』 は6月15日にアップします。お楽しみに)

 

  
 
copyright 2004 Tokyo Chuo Bissiness Navi All Rights Reserved.