中央区の通りを歩く 第16回鍛冶橋通り(後編)

第16回では、中央区内を通る鍛冶橋通りについて、通り沿いの八丁堀、新川界隈などをご紹介します。

鍛冶橋通りの最終地点である新川1、2丁目は、北を日本橋川、東を隅田川、西と南を亀島川と、四方を川に囲まれた一つの島です。このことから、新川は江戸時代には城下へ物資を運ぶ船が頻繁に行き来し、材木、酒、油などの問屋で賑わっていたそうです。 明治に入り、築地に活版製造所が作られると、銀座地区に新聞社、築地界隈に出版社、印刷会社、製本会社が数多く集まるようになりました。こうした町の変化は新川や八丁堀一帯にも及び、現在でも中央区の印刷、製本会社の多くがこの地域に集まっているそうです。


6 本八丁堀交差点

鍛冶橋通りと新大橋通りが交差する鍛冶橋交差点。第13回の新大橋通り(前編)でも訪れた同交差点。交差点を越えて八丁堀4丁目を通り抜ける頃から、徐々にマンションの数が多くなっていきます。



本八丁堀交差点


新川方面へ歩くとマンションの姿も

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7 高橋付近

亀島川に架かる高橋を渡ると住所は八丁堀4丁目から新川へと変わります。高橋の歴史は古く、最初に橋が架けられたのは江戸時代の正保年間(1644年〜1647)と伝えられています。江戸の頃に多くの船が行き来した川の賑わいを想像すると、係留されている船の姿が不思議と懐かしく感じられました。


高橋前


高橋の橋上から亀島川上流を臨む

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8 新川2丁目交差点

鍛冶橋通りと八重洲通りが交差する新川2丁目交差点。周辺はオフィスビルとマンションなどの住宅がほぼ同じくらいの数で混在し、平日の日中の同交差点は人通りも交通量も少なく、とても静かです。



新川2丁目交差点


マンションが数多くあります

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おもしろ発見 その3【公園にある巨大な石の正体とは?】

現在、越前堀児童公園のあるこの一帯は、江戸時代には越前福井藩主、松平越前守の屋敷がありました。当時、屋敷の三方が入堀に囲まれていたため、この入堀は通称「越前堀」と呼ばれていました。明治には「越前堀」がそのまま町名になりましたが、戦後、入堀が完全に埋め立てられ、昭和46年の住居表示制度の実施で町名も現在の新川になったそうです。公園内には、平成18年の新川2丁目発掘調査で出土した入堀の石垣の一部が、説明板とともに展示されています。


公園内に展示されている入堀の石垣


越前堀児童公園内

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9 永代橋西交差点

鍛冶橋通りと永代通りが交差する永代橋西交差。同交差点は、鍛冶橋通りの最終地点であり、通りはここで永代通りと合流します。永代橋を渡りきると江東区永代、同区佐賀になります。


永代橋西交差点


交差点近くの隅田川沿いから永代橋を臨む

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おもしろ発見 その4【新川というからには川があったはず】

新川という地名があるからには、その昔、近くに新川という川が流れていたはず。そう思い、新川界隈を探索すると、隅田川沿いにある新川公園内に「新川の跡」と記された記念碑を発見! 新川は、現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川から分岐して、この説明板のある付近で隅田川に合流する運河だったそうです。船による物資の輸送などのために、万治3年(1660年)に開削したと伝えられており、両岸は初めは材木問屋、のちに酒屋の問屋街となり、大変繁盛していたそうです。ちなみに、新川は昭和23年(1948年)に埋め立てられました。


「新川の跡」の記念碑


新川公園内

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